Chronology (筒井氏・年譜)

・筒井一族に関係する年譜をその出典と共に、年代順(日付は和暦)にご紹介すべく、順次充実させます。

・『傳香寺全国筒井氏同族会会報 創刊号』(昭和61年9月14日発行)の「筒井氏・年譜」を基礎とし、関連する情報を、少しずつ書き足してゆきます。


=====<奈良時代(710~794年)>=====

   (平常京(710~784年)、長岡京(784~794年))

◆和銅3(710)年3月10日: 藤原京から平城京への遷都。




◆神護景雲2(768)年12月9日: 

 ・家祖 筒井太夫藤原順武、河内国平岡より、称徳天皇の勅命により春日社が今の御葢山麓に御遷座した折、お伴した藤原四家の1つとして大和に移り住む。(『大和軍記』・『和州国民郷土記』・『和州諸将軍伝』)

 筒井氏の本姓は大神朝臣で、藤原冬嗣(775~826年)十男の養子となり、藤原朝臣を給わったとする。(『傳香寺全国筒井氏同族会会報 第5号』(平成元(1989)年9月10日発行))


◆延暦3(784)年11月11日: 平城京から北へ約40Km離れ、水利性の高い長岡京に遷都される。(延暦13(794)年10月22日に、更に平安京に遷都された)

=====<平安時代(794~1185年)>=====

   (平氏政権(1167~1185年))

◆貞観6(864)年11月7日: 大和国の国司によると、遷都後100年も経たないうちに、平城京は縦横に走っていた大路や小路が耕されて田んぼになり、かつての都は田園に戻っていると言う報告がされている。一方、平城京の中でも、興福寺や東大寺のある外京のエリアは、多数の僧を抱える大きなお寺の存在のお陰で、次第に都市化していったようであり、中世奈良の中心はこの外京になっている。(『三代実録 巻第九』、『春日若宮御祭礼記』、『中世の奈良 都市民と寺院の支配』)


◆11世紀末~12世紀前半: 興福寺や東大寺が力をつけ、大和国に対する国司の支配は消滅してしまっていた。(『祭礼で読み解く歴史と社会 春日若宮おん祭の900年』)


◆保延元(1135)年: 関白・藤原忠通によって、春日若宮神社が創建される。

◆保延2(1136)年9月17日: 興福寺によって若宮御祭が開始され、春日神社を支配下に。流鏑馬は、御祭が始まった当初から、祭りの一部に組み込まれていた。(『若宮祭礼記』、『祭礼で読み解く歴史と社会 春日若宮おん祭の900年』)

=====<鎌倉時代(1185~1333年)>=====

◆13世紀中葉: 筒井城の前身となる遺構が出現する。(『筒井城第14次発掘調査報告書』、『筒井氏と西大寺』)


◆寛喜3年(1231年): 筒井一族の出自と思われる西大寺二世長老・信空(慈道上人)が生まれる。(『筒井氏と西大寺』)


◆仁治2(1241)年: 戌亥脇党全体の聖地であると認識されていた額安寺からほど近い馬司荘の荘官とも思われる乗詮 舜蓮房は、出自が筒井氏を示唆するものか(『金剛仏子叡尊感身学正記』仁治二年条、『筒井氏と西大寺』)


◆永仁元(1293)年: 永仁の南都闘乱。興福寺の一乗院と大乗院が争い発端とする乱の勃発。


◆正和5年(1316)年1月26日: 筒井一族の出自と思われる西大寺二世長老・信空(慈道上人)が入寂。歿後、後醍醐天皇によって慈真和尚の諡号が贈られた。(『筒井氏と西大寺』)


◆嘉暦4(1329)年: 興福寺は衆徒に有徳銭(富裕層を中心に賦課された臨時の税金)を課す。これに 筒井下総公(しもうさのきみの名がある。(『南都傳香寺』)(あるいは、「下総公」の部分は、「総下司」だった可能性もあるのではないだろうか)


=====<建武の新政(1333~1336年)>=====

=====<室町時代(1336~1573年)>=====

   (南北朝時代(1336~1392年)、戦国時代(1467~1590年))

◆康永2(1343)年11月25日: 筒井氏と思われる「順慎 舜蒙房(あるいは順慎 舜慶房」・「順圓 定舜房」と言う名の武士の署名あらわる文献見つかる。(額安寺文書 『西大寺衆徒連署置文』、『筒井氏の「牢籠」と在地支配』、『筒井氏と西大寺』、『祭礼で読み解く歴史と社会 春日若宮おん祭の900年』)


◆貞和6(1350)年3月12日: 筒井氏と思われる「舜慶房」(順慎か)と「定舜房」(順圓か)と言う名の武士の署名あらわる文献見つかる。(額安寺文書『西大寺衆徒連署起請文』、『筒井氏と西大寺』)(尚、実際にはこの年の2月27日に、観応に元号が変わっている)


◆文和2(1353)年10月3日: 筒井氏の本家とも推測される「森屋筒井」の記述あらわる。(東大寺文書『大仏殿灯油料所未進押領人交名 注進書』)


◆14世紀後葉: 大和国において、筒井城は既に他に卓越した存在の規模になっていた。(『筒井城第11次発掘調査報告書』、『筒井氏と西大寺』)


◆至徳元(1384)年: 国民を中心に春日社の流鏑馬勤仕者(願主)67名の名前の中に、「筒井氏」「福住氏」「山田氏」等も記載有り。(『長川流鏑馬日記』)

 春日若宮おん祭りがはじめられた当初から、大和士によって流鏑馬十騎が奉納されてきた。大和士とは、十市氏を首領とする長谷川党(式下・式上郡)、箸尾氏を首領とする長川党(葛下・広瀬郡)、筒井氏を首領とする戌亥脇党(添下・平群郡)、楢原氏を中心とした南党(葛上郡)、越智氏を中心とした散在党(高市郡)、平田党の六党。しばしば、流鏑馬の順番をめぐって筒井氏と十市氏が刃傷沙汰をおこし、興福寺別当を困らせたようであるが、争いを避ける方法として稚児を流鏑馬に登用し、武士のメンツを立てることで解決されたようである。


◆至徳2(1385)年: 筒井順覚 西大寺の外護職契約文

◆至徳2(1385)年11月1日: (『筒井順覚等連署置文案』東大寺図書館・薬師院文庫)


◆至徳3(1386)年10月9日: 春日社領摂津国東西牧の奉行に関して衆中沙汰衆(官符衆徒)の一人として筒井順覚の名あらわる。(春日大社文書『興福寺衆徒評定状』)

◆◆康応2(1390)年/明徳元(1390)年(3月26日~)◆◆

◆明徳元(1390)年: 成身院光宣(陽舜房法印)生まれる。(『大乗院寺社雑事記』)


◆◆明徳5(1394)年/応永元(1394)年(7月5日~)◆◆


◆応永11(1404)年7月25日: 筒井順覚、後南朝方の箸尾為妙と十市遠重と戦い、敗れ、筒井郷を焼き払われる。(『薬師院旧記』)。同様の記述が『寺院細々引付』にもあり。


◆応永13(1406)年2月13日: 十市党により、筒井郷焼払われる。(『東寺王代記』)


◆応永15(1408)年: 筒井順覚、箸尾為妙と戦う。


◆応永20(1413)年: 筒井順永、大和国衆と戦い敗る。


◆応永21(1414)年6月20日: 室町幕府は、興福寺学侶・衆徒の訴えに基づき、衆徒・国民を京都に召し私合戦を停めるように誓わせた。この幕府が召した衆徒・国民の中に「筒井(戌亥脇)」と筒井氏の本家とも推測される「森屋筒井」の記載が含まれる。(『寺門事条々聞書』)

 

◆応永26(1419)年: 筒井順永、生まれる。


◆応永27(1420)年: 筒井順覚、西大寺領を押領す。


◆応永29(1422)年5月(11日以前と推測される): 筒井舜学房、卒す。(『大乗院日記目録』)

◆◆応永35(1428)年/正長元年(1428)年(4月27日~)◆◆

◆正長元(1428)年8~9月: 農民が起こした初めての一揆「正長の土一揆」起こり、京都からその後大和にも及んだ。(『大乗院日記目録』)

◆正長元(1428)年12月2日: 生馬・登見の馬借が中心になって西大寺辺に集まり、西大寺やその後各地の門前町を荒らした。これに対し、興福寺側では、衆徒の筒井氏がこれの討伐に当たり、また興福寺も徳政令を出した。


◆◆正長2(1429)年/永享元(1429)年(9月5日~)◆◆

◆正長2(1429)年2月25日: 醍醐寺座主であった満済(二条家庶流今小路家(従一位・権大納言)の出)の日記『満済准后日記』に、「筒井伯父」の記述あらわる。

◆正長2(1429)年: 筒井城が、『満済准后日記』に、「筒井館」の記述で記される。(尚、郡山市の発掘調査では、14世紀の半ば頃には、幅約8m、深さ約2mの内堀があったことが判明しているとのこと。)

◆正長2(1429)年3月6日:

 ・『満済准后日記』に、「筒井」の記述あらわる。(ここでは筒井順永を指す)

 ・『満済准后日記』に、「筒井伯父」の記述あらわる。

◆正長2(1429)年4月10日: 『満済准后日記』に、「筒井伯父」の記述あらわる。

◆正長2(1429)年4月11日: 足利義教、大和筒井覚順を引見す。(『満済准后日記』)。

◆正長2(1429)年4月12日: 『満済准后日記』に、「覚順」(筒井覚順のこと)の記述あらわる。

◆正長2(1429)年7月: 井戸氏と豊田中坊氏の争いが拡大し、「大和永享の乱」が始まる。(~永享11(1439)年3月)

◆永享元(1429)年9月18日 : 9月22日に奈良に下向する予定だった室町幕府6代将軍・足利義教を狙ったものとして、奈良にて潜伏中の楠木光正が筒井覚順によって捕縛され、楠木光正は18日に京都に移送された。(『看聞日記』)

◆永享元(1429)年11月24日: 井戸氏についた筒井氏(覚順)は、豊田中坊氏方についた越智氏・箸尾氏・万歳氏・沢氏・秋山氏に敗北し、領内を焼き払われる。(『満済准后日記』)

◆永享元(1429)年12月2日: 豊田中坊と井戸氏の争いに関し、越智・箸尾両氏らは豊田中坊に、筒井(覚順)・十市氏らは井戸方に味方。室町幕府は再三合戦停止の勧告を行ったが、越智氏らはこれを無視して豊田中坊を援助し、井戸氏方の筒井・十市氏に合戦を仕掛ける。(『満済准后日記』)

◆永享元(1429)年12月3日: 『満済准后日記』に、「覚順」(筒井覚順のこと)の記述あらわる。


◆永享2(1430)年8月26日: 室町幕府、攝津河上五箇關を筒井覚順に宛行ふ、(『満済准后日記』)


◆◆永享3(1431)年◆◆

◆永享3(1431)年8月24日: 筒井氏が箸尾城を焼き討ち。(『満済准后日記』永享三年八月廿七日条)

◆永享3(1431)年8月27日:

 ・『満済准后日記』に、「順永」(筒井順永のこと)の記述あらわる。

 ・筒井氏が8月24日に箸尾城を焼き討ち。箸尾氏は筒井氏が留守の間に大軍を率いて、まず筒井方の蓬來城を攻め、その上で筒井城を包囲。(『満済准后日記』)

◆永享3(1431)年8月30日: 『満済准后日記』に、「筒井城」の記述あらわる。

◆永享3(1431)年8月30日: 『満済准后日記』に、「順永」(筒井順永のこと)の記述あらわる。

◆永享3(1431)年12月24日: 「筒井覚順」の記述あらわる。(『建内記』)


◆◆永享4(1432)年◆◆

◆永享4(1432)年9月29日: 『満済准后日記』に、「順永」(筒井順永のこと)の記述あらわる。

◆永享4(1432)年10月3日: 『満済准后日記』に、「順永」(筒井順永のこと)の記述あらわる。

◆永享4(1432)年10月4日: 『満済准后日記』に、「順永」(筒井順永のこと)の記述あらわる。

◆永享4(1432)年10月10日: 『満済准后日記』に、「順永」(筒井順永のこと)の記述あらわる。

◆永享4(1432)年10月18日: 『看聞日記』に、「覚順」(筒井覚順のこと)の記述あらわる。

◆永享4(1432)年11月27日: 越智氏・箸尾氏との合戦に敗北した筒井方の成身院光宣の申立てによって、室町幕府(6代将軍・足利義教)は赤松義雅等に命じ、越智討伐が行われる。(『大乗院日記目録』)

◆永享4(1432)年12月2日: 『看聞日記』に、「覚順」(筒井覚順のこと)の記述あらわる。

◆永享4(1432)年12月3日: 室町幕府の越智氏討伐によって、越智氏没落す。(『大乗院日記目録』)

◆永享4(1432)年12月20日: 『看聞日記』に、「覚順」(筒井覚順のこと)の記述あらわる。


◆永享5(1433)年8月14日: (『大乗院日記目録』)


◆◆永享6(1434)年◆◆

◆永享6(1434)年: 越智氏加担の小泉氏、筒井館を襲う。

◆永享6(1434)年8月14日:

 ・筒井大将(筒井覚順)・筒井五郎、越智氏と戦い、慈明寺(橿原市)に討死。(『大乗院日記目録』、『看聞日記』)

◆永享6(1434)年8月15日: 

 ・『満済准后日記』に、「覚順」(筒井覚順のこと)の記述あらわる。

 ・『満済准后日記』に、「筒井五郎」の記述あらわる。

 ・越智方より筒井城へ押し寄せ、越智氏は守護が如く雑務検断権を衆徒である豊田氏・福智堂氏・小泉氏指示す。(『大乗院日記目録』)

◆永享6(1434)年8月16日: 筒井大将(筒井覚順)筒井五郎、越智氏と戦い、慈明寺(橿原市)に討死。(『看聞日記』)

◆永享6(1434)年8月22日: 『看聞日記』に、「筒井方」の記述あらわる。


◆◆永享7(1435)年◆◆

◆永享7(1435)年1月24日: 『満済准后日記』に、「筒井」(ここでは筒井順永を指す)の記述あらわる。

◆永享7(1435)年4月20日: 西大寺僧侶であった筒井順弘環俗し、筒井氏の惣領となる。小泉氏、筒井順弘の攻撃を受け、城舘(跡、郡山市)を焼いて逃げる。(『大乗院日記目録』)

◆永享7(1435)年9月: 室町幕府、成身院光宣の訴えにより、筒井党を助け、越智党を討つ。(『大乗院日記目録』)


◆永享8(1436)年: 西大寺領の式下郡森屋庄・森屋筒井氏(筒井氏の本家か)没落。


◆永享11(1439)年3月: 室町幕府軍は総攻撃を開始し、越智維通が討たれ、10年に及ぶ「大和永享の乱」は一旦終結した。

◆◆永享13(1441)年/嘉吉元(1441)年(2月17日~)◆◆

◆嘉吉元(1441)年閏9月26日: 筒井氏の内乱あり、惣領筒井順弘以下没落。(『大乗院日記目録』)

◆嘉吉元(1441)年10月5日: 筒井順弘成身院光宣以下の弟に背かれて縁者(妻の出里)の立野(たつの)氏(生駒郡三郷町)を頼って没落して行くと、代わって光宣の弟相国寺(京都市)僧が環属して順永と称し筒井氏惣領になろうとした。(『大乗院日記目録』)

◆嘉吉元(1441)年10月8日: 筒井順永、栄清(春円房)のとりなしによって、室町幕府から筒井氏惣領職安堵される。(『大乗院日記目録』)

◆嘉吉元(1441)年11月13日: 筒井順永衆徒(『大乗院日記目録』)


◆◆嘉吉2(1442)年◆◆

◆嘉吉2(1442)年11月: 室町幕府が筒井氏(成身院光宣)を河上五ヶ関務代官に任命したことにより、関銭の利権が絡む河上五ヶ関務代官職(五ヶ関:兵庫・神崎・渡辺・禁野・淀)につき、興福寺別当の経覚と争論す。

◆嘉吉2(1442)年11月1日: 成身院光宣が手兵をもって南都七大寺(興福寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺・法華寺・清水寺)を占拠。経覚はやむなく代官職を光宣に返還。(『大院日記目録』)

◆嘉吉2(1442)年11月11日: 筒井順弘、眉間寺で実弟の成身院光宣筒井光宣)と戦う。(『大乗院日記目録』)


◆◆嘉吉3(1443)年◆◆

◆嘉吉3(1443)年1月_日: 筒井順弘成身院光宣の五ヶ関代官職をめぐる一族内の攻防は激化し、筒井順弘はかねて対立していた越智氏(春童丸、家栄)援助のもとに筒井城を回復。

◆嘉吉3(1443)年2月21日: 筒井順弘は、一族・内衆に背かれて殺害される。光宣の手が延びたものであろうと、室町幕府の追求もあり、光宣以下も没落す。(『大乗院日記目録』)

◆嘉吉3(1443)年9月16日: 古市胤仙・豊田頼英・小泉重弘が成身院光宣を奈良に攻めると、筒井実憲以下は奈良三条辺りで合戦に及んだが敗退し、光宣筒井館に退き、奈良中は室町幕府の指示により大乗院門跡経覚の下で三人の官符衆徒の支配下に入り、光宣等は罪に問われる。(『大乗院日記目録』)

◆嘉吉3(1443)年9月19日: 京の宮中にも筒井一族が戦に敗れた情報が伝わる。(『看聞日記』)

◆嘉吉3(1443)年12月10日: 成身院光宣が手にしていた関銭の利権が絡む河上五ヶ関務代官職は、興福寺の直務とされた。(『大乗院日記目録』)


◆◆嘉吉4(1444)年/文安元(1444)年(2月5日~)◆◆

◆嘉吉4(1444)年1月17日: (『経覚私要鈔』)

◆嘉吉4(1444)年1月21日: 筒井良舜房実順は内者におそわれて自害。(『経覚私要鈔』)

◆嘉吉4(1444)年1月23日: 興福寺別当の経覚は、16人の衆徒・国民(宝来・竜田・古市・小泉・木津・豊田中・十市・箸尾・岡・嶋・片岡・超昇寺・番条・布施・越智・已上十六人)に下知して筒井館を攻略させる。(『経覚私要鈔』)

◆文安元(1444)年2月26日: 興福寺別当の経覚が筒井館を攻略しようとして下知した16人の衆徒・国民の中心は越智氏だったが、そのうち婚姻関係のある箸尾宗信、片岡氏など筒井方になり、経覚方は敗北。(『大乗院日記目録』)

◆文安元(1444)年2月28日: 筒井順永・成身院光宣に敗れた興福寺別当の経覚は自ら京都の嵯峨に逃れる。(『大乗院日記目録』)

◆文安元(1444)年3月13日: 古市軍との合戦で筒井実憲以下が自害した。(『大乗院日記目録』)

◆文安元(1444)年6月13日: 室町幕府は経覚を援助し、松田対馬入道、飯尾大和入道、飯尾新左衛門を遣して筒井順永成身院光宣ら、追討される。(『大乗院日記目録』)

◆文安元(1444)年7月1日: 筒井順永、小泉館を襲う。


◆◆文安2(1445)年◆◆

◆文安2(1445)年9月13日: 興福寺別当の経覚は鬼薗山城から、筒井方の池田・今市・窪城の諸氏を攻めるなどしたが、筒井順永によって落城し、経覚は城を焼いて逃れた。(『大乗院日記目録』)

◆文安2(1445)年11月16日: 『成身院光宣筒井順永連署書状』


◆宝徳2(1450)年11月18日: 筒井市場の存在が明らかになる。(『経覚私要鈔』)


◆◆享徳2(1453)年◆◆

◆享徳2(1453)年3月12日: 興福寺別当の経覚が築いた鬼薗山城をめぐって一進一退する中で、筒井尊覚宗舜房律師が討死。(『大乗院日記目録』)

◆享徳2(1453)年6月24日: 古市胤仙死去。(『大乗院日記目録』)


◆享徳3(1454)年12月21日: 古市胤仙の死去を契機に筒井方と経覚方の間に和解の動きが進み、成身院光宣と経覚が対面す。(『大乗院日記目録』)


◆享徳4(1455)年7月2日: 畠山氏の内訌が本格化し、畠山伊予守義就と畠山弥三郎の抗争が発生。弥三郎方に味方した成身院光宣・筒井順永・箸尾宗信・片岡氏が義就方に敗北す。(『大乗院寺社雑事記』)


◆◆康正3(1457)年/長禄元(1457)年(9月28日~)◆◆

◆康正3(1457)年4月28日: 興福寺の一乗院もしくは大乗院の門主と主従関係を結んでいた衆徒の名前が挙げられている。筒井氏は、一乗院方の衆徒で筆頭に名前が挙げられている。(『尋尊大僧正記二 寺務方諸廻請』)

◆康正3(1457)年8月19日: 河内畠山氏の党争に筒井党没落す。

◆長禄元(1457)年10月16日: 足利幕府は、筒井一族、箸尾氏の所領を没収して興福寺に寄附す。(春日大社文書『室町幕府奉行人奉書』、『大乗院日記目録』)。


◆◆長禄2(1458)年◆◆

◆長禄2(1458)年10月17日: 福住五郎は窪庄を一時的に預かったが、同庄の田畑を質入れしたまま亡くなったので、兄弟の成身院光宣が引き継いで知行している。(『大乗院寺社雑事記』)


◆◆長禄3(1459)年◆◆

◆長禄3(1459)年5月27日: 「晦日

一、入夜テ御教書到来了、

成身院筒井・箸尾等事被宥免上者、帰国幷如行分如元不可有相違_、若有異儀之族者、両方無為様可被廻計略、尚以背御成敗致緩怠者、雖為何堅可被処罰科之旨、可令下知衆徒国民等給之趣、可被申入大乗院家之由、所被仰下也、仍執達如件、

  長録三年五月廿七日 右京大夫(細川勝元) 判

 松林院僧都御房」(『大乗院寺社雑事記』長禄三年五月晦日条)

◆長禄3(1459)年6月1日: 

 ・筒井党、菅領細川氏の援助で所領を復し、大和入国。越智氏引き揚げる。「筒井順永・光宣以下御免、越智方引退了」(『大乗院日記目録』長禄三年六月一日条)

 ・「光宣律師筒井・箸尾入国、細川勢ヲ相ソエ云々、国ノ輩ニ御教書共面々各々被成之云々、尊藤ヲ光宣方ニ遣之、畏入云々、浄ルリ院エ落付了云々、」(『大乗院寺社雑事記』長禄三年六月一日条)

 ・畠山弥三郎が歿すると、成身院光宣の計略で、舎弟の畠山弥二郎(政長)がその跡を継ぐ。(『大乗院日記目録』長禄三年六月一日条)

◆長禄3(1459)年6月13日: 筒井順永筒井本城に入る。

◆長禄3(1459)年7月1日: 筒井順永、小泉館を攻略す。


◆◆長禄4(1460)年/寛正元(1460)年(12月21日~)◆◆

◆長禄4(1460)年: 筒井党、国中諸庄園を蚕食す。

◆長録4(1460)年3月29日: 筒井順永上洛。(『大乗院寺社雑事記』)

◆長禄4(1460)年9月20日: 筒井順永成身院光宣(『大乗院寺社雑事記』)

◆長禄4(1460)年9月23日: 筒井順永成身院光宣(『大乗院寺社雑事記』)

◆長禄4(1460)年10月10日: 畠山政長方の筒井順永成身院光宣が高名を上げた。(『大乗院寺社雑事記』)

◆長禄4(1460)年10月11日: 勝ちに乗じた筒井順永は十市遠清とともに義就を追補して河内へ赴いたが、畠山義就の行方は不明だった。(『大乗院寺社雑事記』)

◆長禄4(1460)年10月18日: 筒井氏、河内嶽山に畠山義就を攻む。


◆◆寛正2(1461)年◆◆

◆寛正2(1461)年1月7日: 河内嶽山合戦始まり、筒井氏や箸尾氏が参加。(『大乗院寺社雑事記』)

◆寛正2(1461)年4月15日: 成身院光宣が畠山政長方の参謀として戦い、畠山義就方が敗北。畠山義就自身は高野山に落ちる。(『大乗院日記目録』)

◆寛正2(1461)年4月15日: 室町幕府・将軍足利義政は、越智家栄・筒井順永・十市遠清をして河内国の若江城(跡、東大阪市)を守らせ、畠山義就の残党に備えさす。(『長録寛正記』に記載のある『管領細川勝元書状』)

◆寛正2(1461)年6月16日: 筒井昭覚(筒井大東)舜定房の子息某が福住家に入って福住五郎筒井からの養子)の遺跡をつぐ。(『大乗院寺社雑時記』)

◆寛正2(1461)年10月: 筒井氏、越智氏などの大和国衆は多武峯の坊に師弟を入れ、越智氏は学侶衆、筒井氏は脇戸衆になるものが多く、寺内でも勢力を有していた。寺内では学侶と禅衆の階級対立が激化し、抗争が勃発。数百人もの死者を出した。(『祭礼文化史の研究』P.448)


◆◆寛正6(1465)年◆◆

◆寛正6(1465)年: 筒井氏、遊佐長直と戦う。

◆寛正6(1465)年11月6日: 山内持豊の使者が来て越智家栄の注進状を示し、細川与党の成身院筒井光宣の被官が越智家栄の京上荷物を奪ったことを伊勢貞親に訴える。(『蜷川親元日記』寛正六年十一月六日条)


◆◆寛正7(1466)年/文正元(1466)年(2月28日~)◆◆

◆文正元(1466)年8月28日: 室町幕府は、世相が騒然となっていた京都において、管領畠山政長の遺構に基づき、畠山義就追討を古市・筒井両氏に命じる。(『大乗院寺社雑事記』文正元年八月廿八日条)

◆文正元(1466)年9月13日: 筒井順永・成身院光宣以下の一党、畠山政長方とあり。(『大乗院寺社雑事記』)

◆文正元(1466)年10月5日: 畠山義就・畠山政長の両陣営と関係を持つ、実質応仁の乱の関係した主な大和国人に、筒井順永・成身院光宣も含まれている。(『大乗院寺社雑事記』)

◆文正元(1466)年10月16日: 再び越智家栄以下の畠山義就方が布施・高田兄弟を攻める。畠山政長方の筒井以下も布施・高田に合力したが、畠山政長方が敗北し、没落衆となった筒井以下は箸尾城に逃げ込む。また、筒井方の金剛寺・福塚、越智方の小嶋の諸氏が討死。更には布施の知恩寺と名木の松も焼失。(『大乗院寺社雑事記』)

◆文正元(1466)年11月: 筒井氏、小泉氏と和睦なる。


◆◆文正2(1467)年/応仁元(1467)年(3月5日~)◆◆

◆文正2(1467)年1月19日: 山名宗全・畠山義就らが畠山政長追討を主張して室町殿(上京区)に拠ると、畠山政長は自邸を焼いて上御霊社(上京区)に陣取って対抗したが敗北し、成身院光宣の計らいで細川勝元の邸に身を潜める。(『大乗院日記目録』)

◆文正2(1467)年1月23日: 室町幕府から興福寺に対し、畠山政長とその与党創作の奉書が出され、大和国においては筒井一門が幕府の追補を受けることになった。(『大乗院寺社雑事記』文正二年二月十六日条)

◆応仁元(1467)年3月14日: 成身院光宣の配下が京都嵯峨の法輪橋(右京区)辺りにおいて、畠山義就被官甲斐庄によって打たれる事件発生。(『大乗院寺社雑事記』応仁元年三月十五日条)

◆応仁元(1467)年6月2日: 都の中で合戦が繰り返され寺社・邸宅などの多くが戦渦に巻き込まれ、こうした中で東方・西方の称が発生。西軍の大将は山名持豊と畠山義就、東軍の大将は武田信賢と成身院光宣であった。(『大乗院寺社雑事記』)


◆応仁2(1468)年1月18日: 応仁の乱起り、筒井党は東軍に、越智党は西軍に加担す。(~文明9(1477)年11月20日)

◆◆応仁3(1469)年/文明元(1469)年(4月28日~)◆◆

◆文明元(1469)年9月25日: 筒井順永(『大乗院寺社雑事記』)

◆文明元(1469)年10月5日: 光宣法印。東軍の箸尾藤徳方よりの報告によると西軍の計略によって越智家栄が京都へ後南朝の某宮(小倉宮の王子か)を迎えようとしていることが知られる。(『大乗院寺社雑事記』)

◆文明元(1469)年11月20日: 応仁の乱で東軍の参謀として重きを為してきた成身院光宣卒す。(80歳)(『大乗院寺社雑事記』)

◆文明元(1469)年12月31日: 唐古大善(磯城郡田原本)の孫娘は、筒井大東筒井順永の母であり、筒井大東の息子が福住家の養子に入っており、順永の息子は栄ゝである。(『大乗院寺社雑事記』)


◆◆文明2(1470)年◆◆

◆文明2(1470)年1月4日: 筒井順永、権律師に任ず。前年の文明元年の春日若宮祭で、本来学侶身分の者が負担しなければならない経済的な役である田楽頭役(でんがくとうやく)を筒井順永が勤めており、その功によって”大法師”から3階級上の”律師”に昇進している。(『大乗院寺社雑事記』、『中世の奈良 都市民と寺院の支配』)

◆文明2(1470)年1月16日: 「」(『大乗院日記目録』)

◆文明2(1470)年4月20日: 筒井順永の長男栄藤(順尊)が得度。(『大乗院寺社雑事記』)

◆文明2(1470)年5月1日: 故成身院光宣の弟で、福住氏の父である筒井大東昭覚・舜定房と称し、74歳で文明2年に亡くなる。(『大乗院寺社雑事記』)

◆文明2(1470)年7月23日: 東軍の筒井順永の語るところ、南山城は悉く西方の支配下にあり東方は籠の中の鳥同然と末尾に記されており、当時の状況として西方が優勢であったことを示している。(『大乗院寺社雑事記』)

◆文明2(1470)年7月25日: 「」(『大乗院寺社雑事記』)

◆文明2(1470)年9月13日: 筒井順永、仁木・狭川勢加勢のため善洛寺辺に出陣す。(『大乗院寺社雑事記』)


◆◆文明3(1471)年◆◆

◆文明3(1471)年5月10日: 「」(『大乗院日記目録』)

◆文明3(1471)年7月20日: 筒井順永、河内若江城を陥れる。筒井順永の息子の順尊(舜覚房)は、大内政弘の軍勢に対して、奈良を衛ると称して河内の合戦には参加しなかったが、尋尊はこれを臆病風とみていたようである。寺住衆徒の中にも仮病を使って参加しない者がいたからだとのこと。」(『大乗院寺社雑事記』)

◆文明3(1471)年7月21日: 「」(『大乗院寺社雑事記』)


◆文明4(1472)年10月16日: 筒井順永、大内氏代官杉十郎を攻めるため、たまたま起こっていた奈良の土民蜂起鎮圧を名目に軍を進め、山城木津を経て下狛の大北城(相楽郡精華町)を陥れ杉十郎を自害させる。(『大乗院寺社雑事記』)


◆文明5(1473)年7月4日: (『筒井順永起請文案』東大寺図書館・薬師院文書)

◆文明5(1473)年11月4日: 筒井順永、河内に出兵し西軍と野崎(大東市)に戦う。(『大乗院寺社雑事記』)


◆◆文明6(1474)年◆◆

◆文明6(1474)年10月22日: 筒井順永の息女、箸尾為国に嫁す。(『大乗院寺社雑事記』)

◆文明6(1474)年11月22日: 大和国内では地域的な対立抗争、相論が各地にあり、興福寺の支配も崩壊の度を深め、尋尊は、興福寺の権威も無く歎く。(『大乗院寺社雑事記』)


◆◆文明7(1475)年◆◆

◆文明7(1475)年5月2日: 吐田方には越智・古市両氏が、楢原方には河内・紀州勢がそれぞれ合力して合戦したことが伺える。筒井順永は南山城の大内勢に備えて大安寺に陣取った関係で西方の山陵は没落したが、これは筒井軍に敗れたものであろう。(『大乗院寺社雑事記』)

◆文明7(1475)年5月14日: 春日社頭において東軍の成身院明舜房順宣・十市遠清・箸尾為国らが、西軍の越智家栄・古市胤仙らと合戦に及び西軍が敗北した。また、筒井舜覚(順尊)・佐川某らは大内氏の兵を山城木津と天神川原に攻め破った。「(『大乗院寺社雑事記』)

◆文明7(1475)年5月17日: 筒井・箸尾勢(『二条寺主家記抜粋』)

◆文明7(1475)年6月8日: 布施某と万歳・高田両氏の間に対立があり、布施方には筒井舜覚房順尊が合力して万歳城に押し寄せたが敗北し、筒井舜覚房順尊は河内に落ち延びた。この合戦でも打ち死にする者が多かった。(『大乗院寺社雑事記』)

◆文明7(1475)年6月18日: 既に応永元(1467)年に歿していた箸尾宗信に嫁いでいた筒井氏出身の女性歿す。(『大乗院寺社雑事記』)


◆文明7(1475)年7月20日: 筒井氏、万歳氏を攻略す。


◆◆文明8(1476)年◆◆

◆文明8(1476)年4月5日: 筒井氏の惣領であった筒井順永歿(58歳)。(『大乗院日記目録』)

◆文明8(1476)年6月22日: 舜覚房順尊(筒井順尊)筒井氏の惣領を継ぐ。成身院順宣がその代官になる。(『大乗院寺社雑事記』)


◆◆文明9(1477)年◆◆

◆文明9(1477)年1月11日: 

 ・畠山義就方の、越智・古市勢の攻撃にて筒井館(筒井城)、焼かる。(『大乗院寺社雑事記』)

 ・筒井順尊、大和国より逃げる。(『大乗院寺社雑事記』)

◆文明9(1477)年9月21日: 応仁の乱において、畠山義就と合戦する官軍・畠山政長方に味方して文明9年以来没落している筒井党について記載有り。筒井党で本拠地にいたのは十市氏ぐらいであった模様。(『大乗院寺社雑事記』)

◆文明9(1477)年10月7日: 誉田城を攻め落とした畠山義就は引き続いて河内往生院城(跡、東大阪市)・若江城(跡、東大阪市)を陥れ、ついで山城木津城(跡、竹野郡網野町)を降すと、河内・大和における東軍は潰滅状態となる。(『大乗院寺社雑事記』)

◆文明9(1477)年10月13日: 筒井党没落。東山中に閉塞する。(『大乗院日記目録』)

◆文明9(1477)年11月11日: 京では東西両軍の間で講和が成立し、大内政弘ら西軍諸将はそれぞれの分国に引き上げ、ここに十一年にも及び京都での戦乱は終結。(『親長卿記』)

◆文明9(1477)年11月20日: 室町幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され、応仁の乱が終わる。


◆◆文明10(1478)年◆◆

◆文明10(1478)年7月5日: 筒井、箸尾の跡越智氏知行す。

◆文明10(1478)年8月10日: 没落していた十市遠相らは、筒井順尊ほか多武峯一山の援助のもとに畠山義就方に反撃を加えようとしたところ、多武峯寺に謀られて失敗に終わる。多武峯持は、協力するについては綸旨と内書が必要であるとして畠山政長にそれらを出させておいて、反面でこのことを畠山義就や越智家栄に知らせてしまう形で裏切った。尚、この牢人出頭とは本城を放棄して没落していた筒井・十市両氏を指す。(『大乗院寺社雑事記』)


◆◆文明11(1479)年◆◆

◆文明11(1479)年2月: 多武峯の坊にて、学侶=越智方と脇戸衆=筒井方引汲衆との確執あり。(『祭礼文化史の研究』P.448)

◆文明11(1479)年8月10日: 畠山政長方の筒井・十市両氏らが多武峯寺の援助によって畠山義就方を討とうとしたが、結局多武峯寺が畠山義就・越智方に通じたので、寺の要望で筒井氏らが用意した綸旨等も不要になった。「」(『大乗院寺社雑事記』文明十一年八月十日条)

◆文明11(1479)年9月29~30日: 没落・牢人化した中で筒井順尊の部下と足軽らは、ゲリラ戦を展開。「古市勢共出之、昨日今日牢人方足軽共、眉間寺西御門辺ニ乱入故也云々、」(『大乗院寺社雑事記』文明十一年九月晦日条)

◆文明11(1479)年閏9月5日: 眉間寺や転害門辺りで筒井氏の足軽や佐川氏の配下が乱棒を働くと、古市勢が出動したり観禅院では早鐘を撞いて急を知らせる事態があった。「佐川・筒井之足軽共転害辺乱入、観禅院早鐘槌之、比興無殊儀云々、」(『大乗院寺社雑事記』文明十一年閏九月五日条)

◆文明11(1479)年10月7日: 稗田、筒井党のため焼かる。

◆文明11(1479)年10月15日: 筒井順尊自身は福住(天理市)に在り、また十市父子は小山戸などに潜み、部下や足軽を出動させて郡山や中城(郡山市)の民家を焼いたり、畠山義就方の越智・古市・万歳・高田諸氏の年貢米や兵糧を奪ったりなども行った。「筒井自身ハ雖居福住、足軽以下出之、筒井郷分大略知行之、(中略)十市郷事ハ、東よりハ大略十市知行同前云々、所詮筒井・十市方足軽以下国中ニ満々也、」(『大乗院寺社雑事記』文明十一年十月十五日条)

◆文明11(1479)年10月19日: 筒井勢、郡山中殿を襲い、在家を焼き払う。


◆文明13(1481)年3月4日: 畠山義就方の古市澄胤は、筒井順尊の没落先の福住に兵を出して寺院や民家を焼き払った。これは筒井順尊の、おそらく足軽らが古市方の岩井川(奈良市)辺りの民家を焼いたゲリラ作戦に対する報復であろうという。「夜前自古市夜打、福住之別所之寺幷在家焼払了、後六人寺法師以下被打死了、自筒井之陣ハ別所ハ十七八丁遠所也云々、雖然筒井陣仰天以外也云々、去十七日岩井川焼之報答分歟云々、」(『大乗院寺社雑事記』文明十三年三月四日条)

◆文明13(1481)年3月7日: 古市澄胤が河内に出向いた留守中に、筒井方が古市方の鹿野園(奈良市)の民家を焼く。「夜前鹿野園北口在家七八間焼失了、自筒井方沙汰歟云々、今日古市為当年礼行向河内国歟云々」(『大乗院寺社雑事記』文明十三年三月七日条)

◆文明13(1481)年7月15日: 畠山義就が逝去したという噂が流れると、畠山政長方の山内に潜んでいた筒井党は色めき立ち一斉に反撃に出ると大和はまたも大乱の渦と化してて行った。「近日世間之浮説共無是非、山内衆筒井以下可国中支度云々、大ニ不審事也、今度和州面々没落ハ、畠山右衛門佐(義就)之威勢也、各不及一合戦退散了、今何事ニ彼威勢可劣哉、若令出頭者尚々可追失基也、及此六七十日雑説ニ、右衛門佐逝去之由申沙汰、如此事存実儀存立歟、不可然事也、」(『大乗院寺社雑事記』文明十三年七月十五日条)

◆文明13(1481)年7月19日: 「明日筒井順尊・箸尾為国・十市遠相・成身院順盛等、率人勢可入自分之館之由必定旨云々、多武峯寺同心合力云々、」(『大乗院寺社雑事記』文明十三年七月十九日条)

◆文明13(1481)年7月20日: 筒井氏以下一門は、それぞれ自分の城館に入ったうえで、筒井順尊は菅田へ、十市遠相は田原本へ、箸尾為国は法貴寺・結﨑辺へ出陣、成身院順盛は福住城に入ったが、まだ合戦には及ばず。「筒井出張菅田、十市出張田原本、箸尾出張法貴寺幷結崎、成身院移住福住城、」(『大乗院寺社雑事記』文明十三年七月廿日条)

◆文明13(1481)年7月21日: 「今暁中川寺発向、本堂計相残悉以焼払之、堤手幷古市手進発了、彼寺法師四人被打殺了、一山悉以自昨日成身院相伴、出陣福住之留守也、不便次第也、一山滅亡可歎々々、寺号根本成身院云々、一乗院殿御寺也、引入衆彼寺法師無量寿院(古市被官)、平清水源さ衛門・簀川云々」(『大乗院寺社雑事記』文明十三年七月廿一日条)

◆文明13(1481)年7月23日: 国中(くんなか)に出陣した筒井以下の畠山政長方は畠山義就方の城上郡の戒重某を責め多武峯寺勢力も協力したが大敗に終わった。また別に古市勢は福住城に発向した。「今日戒重責也、寄衆筒井・箸尾・十市各被追散了、多武峯寺勢共同被殺了、両方大死也、在々所々焼亡、今朝合戦也、今夕古市発向福住城了、此間筒井居住所也」(『大乗院寺社雑事記』文明十三年七月廿三日条)

◆文明13(1481)年9月28日: 『衆徒・国民内縁等知音事』として国人相互の関係について、前半は畠山義就方の越智党、後半は管領畠山政長方の筒井党とみなされ、党結合を血縁によって形成していたことが伺える。

「古市西ト番条ト縁者也、古市ト吹田ト縁者也、西(古市)ト窪庄ト縁也、古市ト越智ト秋山ト也、西(古市)ト佐川ト縁也、番条ト白土ト縁者也、倶志ラト吹田ト古市兄弟遠縁者也、

窪城ト十市北縁也筒井ト也、窪城ト筒井ト縁者也、十市ト筒井ト縁也、十市ト箸尾ト縁也、楢原ト筒井ト縁也、筒井ト遊佐ト縁也、」(『大乗院寺社雑事記』文明十三年九月廿八日条)


◆◆文明14(1482)年◆◆

◆文明14(1482)年6月7日: 「」(『大乗院寺社雑事記』文明十四年六月七日条)

◆文明14(1482)年6月29日: 成身院順盛は高山に入部、なおも抵抗を続ける舎弟を疋田城(奈良市)に攻めて陥れた。「成身院以下入部高山云々、今夜疋田城焼之了、高山此間ハ河内方給恩之衆也、今度裏返了、同舎弟ハ疋田之大将也」(『大乗院寺社雑事記』文明十四年六月廿九日条)

◆文明14(1482)年8月25日: 幕命を背景としての畠山政長方筒井党の反撃始まる。筒井順尊・成身院順盛らは、一旦本拠筒井城に入った(復帰した)後、稗田・蓑田を再び焼き払い、十市遠清・箸尾為国らは菅田に陣を構えた。「筒井・成身院・安楽坊各入部筒井了、稗田・箕田焼払云々、十市・箸尾菅田ニ入部云々、」(『大乗院寺社雑事記』文明十四年八月廿五日条)

◆文明14(1482)年9月17日: 畠山義就方の越智党が、沢・秋山両氏のほか義就方の足軽らと共に十市郷・箸尾郷を焼掠しつくし、また郡山中軍は天井(郡山市)・新木(郡山市)を、古市勢は櫟本(天理市)を焼き払い、その前に筒井党は為す術もない有様であった。「今日自越智方十市郷悉以焼払之、沢・秋山・河内足軽等相具進云々、十市・箸尾等スカタ田ニ出陣、箸尾郷同焼之、大焼亡也、箸尾一族一人被打、両方人共損云々、自郡山中方天井・新木等焼之、自古市方礫本少々焼之、所詮近日儀筒井・十市・箸尾出頭方無力躰也、於今分者初終不可叶欺歟云々、」(『大乗院寺社雑事記』文明十四年九月十七日条)

◆文明14(1482)年9月18日: 丹後庄辺で筒井衆合戦

◆文明14(1482)年10月30日: 「」(『大乗院寺社雑事記』文明十四年十月丗日条)

◆文明14(1482)年11月2日: 郡山西辺で合戦。窪田、中、筒井の院内狭川衆三人討死。「」(『大乗院寺社雑事記』文明十四年十一月二日条)

◆文明14(1482)年12月30日: 「」(『大乗院寺社雑事記』文明十四年十二月丗日条)


◆◆文明15(1483)年◆◆

◆文明15(1483)年9月9日: 「」(『大乗院寺社雑事記』文明十五年九月九日条)

◆文明15(1483)年9月29日: 箸尾氏の裏切りで、筒井党東山中に没落す。「」(『大乗院寺社雑事記』文明十五年九月廿九日条)

◆文明15(1483)年10月1日: 。「」(『大乗院寺社雑事記』文明十五年十月一日条)


◆文明16(1484)年6月20日: (『筒井南弥七岡崎名作半名売券』)


◆◆文明17(1485)年◆◆

◆文明17(1485)年: 山城国畠山氏の争乱に越智、筒井党それぞれ出陣。


◆文明18(1486)年1月13日:  。「」(『大乗院寺社雑事記』文明十八年正月十三日条)


◆◆文明19(1487)年/長享元(1487)年(7月20日~)◆◆

◆文明19(1487)年1月13日:  。「」(『大乗院寺社雑事記』文明十九年正月十三日条)

◆文明19(1487)年3月17日: 大乗院方衆徒であった番条長懐が死去。「文明十九年 僧長懐 三月十七日」(番条町阿弥陀院の長懐墓石)。また、「」(『大乗院寺社雑事記』)

◆文明19(1487)年4月5日:  。「」(『大乗院寺社雑事記』文明十九年四月五日条)

◆文明19(1487)年6月6日:  。「」(『大乗院寺社雑事記』文明十九年六月六日条)

◆文明19(1487)年7月9日:  。「」(『大乗院寺社雑事記』文明十九年七月九日条)


◆長享元(1487)年9月8日:  。「」(『大乗院寺社雑事記』長享元年九月八日条)

◆長享元(1487)年10月18日:  。「」(『大乗院寺社雑事記』長享元年十月八日条)

◆長享2(1488)年10月18日: 室町幕府、筒井氏を大和に入らせ、越智氏を討たせる。


◆◆長享3(1489)年/延徳元(1489)年◆◆

◆長享3(1489)年7月22日: 

 ・筒井順尊、酒の飲み過ぎにより京都の宿にて39歳にて歿す。文明9年10月13日の没落以来帰国したことがないとあり、生涯牢々の身であったとみなされる。兄弟は成身院順宣安楽坊の二人、そのほか遊佐河内守に嫁いだ妹と思われる女性あり。子供は三人いたらしく、福住の養子になっていた長男、六歳の二男、そして娘であったようである。「一昨日廿二日筒井順尊舜覚房三十九逝去、於京都宿、酒損也、去文明九年丁酉歳十月十三日没落以後、于今不帰国、剰入滅、大明神御罰也、一家者共同前、不便々々、一男ハ福住ニ成之、俗人也次男ハ六歳也、女子一人在之、兄弟ハ成身院(順宣)安楽坊両人也、遊佐河内守妻女、」 (『大乗院寺社雑事記』長享三年七月廿四日条)

 ・筒井順尊の嫡子、良舜坊順賢が継ぐ。後見は、筒井順尊の弟である成身院順盛



◆延徳2(1490)年4月11日: 郡山城衆筒井以下自焼、没落。


◆明応2(1492)年5月19日: 。「」(『大乗院寺社雑事記』明応二年五月十九日条)


◆◆明応6(1497)年◆◆

◆明応6(1497)年: 筒井党古市澄胤、越智家栄を破り、勢力回復す。

◆明応6(1497)年10月8日: 筒井藤王丸(筒井順賢)番条に入る。


◆◆明応7(1498)年◆◆

◆明応7(1498)年3月15日: 郡山中氏、筒井氏のため没落。

◆明応7(1498)年5月27日: 筒井順盛藤王丸同道で大乗院を訪れる。


◆◆明応8(1499)年◆◆

◆明応8(1499)年11月22日: 筒井藤王順賢福住に養子として入っていた筒井順尊の長男が福住から帰って順尊の跡目を継ぎ、若年のため叔父成身院順宣が後見人になる。「於西南院筒井藤王得度、為礼遣泰弘上座了、畏入、可祇候、則参申、付衣、白五帖、順賢良舜房見参、盃給之、扇一本給之、興清同道、」(『大乗院寺社雑事記』明応八年十一月廿二日条)

◆明応8(1499)年12月19日: 沢蔵軒、細川政元の命で大和に乱入す。筒井党秋篠寺に迎撃。西大寺、法花寺、菅原寺、額安寺焼かる。

◆◆文亀4年(1504)年/永正元(1504)年(2月30日~)◆◆

◆永正元(1504)年3月: 沢蔵軒宗益宇治に没落。筒井氏河内より帰国す。


◆◆永正2(1505)年◆◆

◆永正2(1505)年1月4日: 筒井、越智の和議成立。大和大名衆の盟約なる。

◆永正2(1505)年2月24日: 越智家令の娘が13歳で筒井に嫁いだ。「筒井所ヘ越智女子 十三、近日遣之、珍重々々、」(『大乗院寺社雑事記』永正二年二月廿四日条)


◆永正3(1506)年8月24日: 郡山城陥つ。筒井、箸尾氏宇陀郡に逃る。


◆◆永正4(1507)年◆◆

◆永正4(1507)年6月27日: 沢蔵軒生害。大和国衆宇陀より帰る。

◆永正4(1507)年10月18日: 赤沢長経、京軍を率いて大和へ乱入。郡山に陣す。

◆永正4(1507)年11月13日: 大和国衆一国一揆の形で京軍を襲う。筒井成身院(筒井順盛)河内敗走。


◆永正5(1508)年7月19日: 赤沢長経、奈良に侵入。三条で筒井衆と合戦。


◆永正13(1516)年6月1日: 『筒井順興置文案』(東大寺図書館・薬師院文庫)

◆永正13(1516)年10月6日: 越智家全・古市某、筒井順盛を攻む。両党の盟約破れる。


◆永正14(1517)年8月: 筒井順興、越智家全、古市三氏の和議成立。


◆永正17(1520)年8月: 筒井順興、越智古市と和与。十市とは義絶。

◆◆永正18(1521)年/大永元(1521)年(8月23日~)◆◆

◆永正18(1521)年6月5日: 永正17(1520)年以来筒井・越智両党の間に再び一揆(和睦)の話し合いが進み、同一揆(和睦)を一層堅固にするため、筒井・越智両氏間に婚姻が成立。「筒井順興越智ヘ聟入也、軈而六日夜帰宅ト云々、弥当国可為無事旨及風聞了、」(『祐維記』永正十八年六月五日条)


◆◆大永4(1524)年◆◆

◆大永4(1524)年4月2日: 成身院順盛歿(73歳)。

◆大永4(1524)年11月17日: 筒井氏、畠山植長に加担。河内に出陣。

◆大永4(1524)年12月13日: 筒井順興帰陣。


◆大永5(1525)年6月24日: 筒井順興、当時太政大臣だった近衛尚通宿所にて公卿達の当座和歌会でご機嫌伺い。「座相論事未休、午後参陽明、有御当座、三十首也、(河鰭)季富読上之、出題民卩卿(上冷泉為広)入道、一乗院(良誉大僧正)殿入御、筒井(順興)参候了、盃酌三反、了各令退出、」(『二水記』)


◆享禄2(1529)年11月5日: 『筒井順興書状案 西大寺侍者宛』(東大寺図書館・薬師院文庫)


◆享禄3(1530)年10月15日:

 ・筒井順興、大和国十市郷内の瓜裏庄、中村庄、成願寺庄、為河庄の荘園を狛氏に知行として与える。

「十市郷之内 瓜裹庄・中村庄・ 成願寺庄・為河庄 已上四ケ所事、 為闕所、可有御 知行候、恐々謹言

 享禄三 筒井

  十月十五日 順興(花押)

 狛殿 進之候」(狛文書『筒井順興書状』(折紙))


◆享禄4(1531)年12月24日: 「廿四日 晴、従雑掌一桶両種送之、至今日三度也、毎度餅五十・昆若五、今日餅・熨鮑也、亥刻又参上、依有違乱事移此時、今夜結願、各不及与奪也、筒井(順興)法印令聴聞了、一会了参御神前、御暇乞之由也、(後略)」(『二水記』)

◆◆享禄5(1532)年/天文元(1532)年(7月29日~)◆◆

◆天文元(1532)年8月9日: 一向一揆高取城の越智家栄を攻めたが、筒井、十市氏の活躍で潰滅す。


◆天文2(1533)年9月12日: 

「一 就祭礼執行之儀、自去年長谷川願主流鏑馬役不差定間、上意御下知被成下了、則筒井・箸尾・長谷川氏人衆・寺門ヘ毛被也御下知了、筒井・箸尾幷長谷川法貴寺公文許ヘ案内者仕丁行久相副付了、意得申由御請何毛到来、珍重々々、

 春日若宮去年祭礼流鏑馬事、長谷河令難渋云々、太不可燃、可勤其役之旨早相催之、神事可被遂無事節由被仰出候也、仍執達如件、

 天文二年九月十二日    堯連 在判

              貞兼 在判

  興福寺供目代」(『別会五師方記 天文二年記』天文二年九月条)


◆天文3(1534)年8月: 筒井順昭、法印となる。


◆天文4(1535)年7月5日: 筒井順興、52歳で歿す。「七月五日戌刻、筒井順興法印死去、五十二歳、息藤松殿十三歳、」(『二条寺主家記抜萃』天文四年条)


◆天文7(1538)年 藤松(筒井順昭)、16歳にて家督相続す。「筒井藤松於門跡得度、十六歳、西御評定所戒師愛染院、」(『二条寺主家記抜萃』天文七年条)


◆天文8(1539)年6月17日: 筒井順昭、唐招提寺の湯屋坊住持職に良音房が就任できるように唐招提寺の蔵松院に依頼する。(傳香寺文書『筒井順昭書状』)


◆天文9(1540)年9月: 筒井順昭、十市遠忠と和す。


◆天文10(1541)年7月24日: 「筒井山城」の存在が伺える。「宗左衛門春実、筒井山城江ヨヒノホセテ、順昭ノニセ判仕、」(『享禄天文之記』天文十年七月廿四日条)


◆◆天文11(1542)年◆◆ 

◆天文11(1542)年3月15日: 筒井順昭二十歳の時妻が難産している。「筒井順昭内方難産煩之、」(『多聞院日記』天文十一年三月十五日条)

◆天文11(1542)年4月: 筒井順昭、簀川を攻め古市本城を焼き、古市氏を傘下に置く。

◆天文11(1542)年: 越智民部少輔、筒井殿へ参向す。


◆天文13(1544)年7月: 筒井順昭、小柳生城攻略。さらに一万の軍勢で忍辱山に出陣。


◆天文14(1545)年3月16日: 筒井氏、十市遠忠の死により十市氏を傘下におく。


◆◆天文15(1546)年◆◆

◆天文15(1546)年2月12日: (『享禄天文之記』)

◆天文15(1546)年9月21日: 筒井順昭、竜田に出陣。順昭は天然痘(もがさ)を患っていたようである。(『多聞院日記』)

◆天文15(1546)年9月24日: 筒井順昭、菅原を焼く。

◆天文15(1546)年9月25日: 筒井順昭、越智家頼を貝吹城、興田城を囲む。(『享禄天文之記』)

◆天文15(1546)年10月10日: 越智氏貝吹城を開く、国中ほとんど筒井氏に帰服す。


◆天文16(1547)年5月: 筒井順昭、箸尾為政を殺し、箸尾城を毀つ。


◆◆天文18(1549)年◆◆

◆天文18(1549)年3月3日: 藤勝丸(筒井順慶)生る。

◆天文18(1549)年4月26日: 筒井順昭、比叡山に遁世。(『享禄天文之記』)

◆天文18(1549)年5月8日: 近江国の守護・六角定頼が筒井順昭の家老職にあった八条藤政宛てに、筒井順昭が比叡山延暦寺寺内の宿坊に居住できるように取り計らったと回答。(『六角定頼文書』)


◆◆天文19(1550)年◆◆

◆天文19(1550)年1月16日: 松蔵式部死す(松倉の名現る)。

◆天文19(1550)年2月28日: 筒井順昭、帰城す。(『享禄天文之記』)

◆天文19(1550)年4月26日: 筒井順昭、数人の供衆と共に比叡山に入り、家督を藤勝(順慶)に譲る。(『二条寺主家記抜萃』)

◆天文19(1550)年6月11日: 筒井氏、高田氏と戦い、万歳郷を焼く。

◆天文19(1550)年6月19日:

 ・筒井順昭法印(27歳)、城下・林小路の下館(後の円証寺となり近年生駒市に移転)にて夭折。(『享禄天文之記』)

 ・藤勝丸(筒井順慶)が二歳で家督。叔父の筒井順政が後見人を務める。(「元の木阿弥」の故事成句が生る)


◆天文22(1553)年6月25日: 筒井順昭後室により円証寺を奈良林小路に移し、筒井順昭の菩提所とした。(『筒井順慶菩提所・南都 傳香寺』)


◆弘治3(1557)年4月25日: (『享禄天文之記』)

◆◆弘治4(1558)年/永禄元(1558)年(2月28日~)◆◆

◆永禄元(1558)年11月19日: 筒井藤勝と遊佐氏の娘の婚礼。(『享禄天文之記』)


◆◆永禄2(1559)年◆◆

◆永禄2(1559)年7月13日: 筒井順政、箸尾氏の家臣である佐味田孫八郎に戦功を称える。(『筒井順政感状』)

◆永禄2(1559)年7月24日: 松永軍、井戸良弘を攻める。救援の筒井順政敗れて敗走。

◆永禄2(1559)年8月8日: 松永久秀、信貴山城に入り、国中焼椋する。筒井順慶敗れて敗走。


◆◆永禄3(1560)年◆◆

◆永禄3(1560)年3月16日: 筒井順政、西大寺末寺の律宗寺院・額安寺に関する法令を定める。(『筒井順政額安寺置文案』)

◆永禄3(1560)年: 松永久秀、眉間寺墓を毀ち、多聞城を築く。


◆永禄4(1561)年5月5日: 高市郡真菅村の慈明寺家定次誕生。


◆永禄7(1564)年3月19日: 筒井順政、堺で客死。


◆永禄8(1565)年11月: 国衆多く松永久秀に従う。筒井城、松永久秀の手に落ちる。


◆◆永禄9(1566)年◆◆

◆永禄9(1566)年2月4日: 藤政(筒井順慶)、多聞城の支城美濃庄城を攻める。

◆永禄9(1566)年2月24日: 松永久秀は、藤政(筒井順慶)の攻撃に備えて兵糧を筒井城に搬入す。

◆永禄9(1566)年3月: 松永久秀、筒井に出陣。

◆永禄9(1566)年4月11日: 筒井、三好三人衆連合軍が奈良に押し寄せる。

◆永禄9(1566)年4月13日: 筒井、三好三人衆連合軍が古市を焼く。

◆永禄9(1566)年4月21日: 藤政(筒井順慶)、美濃庄城を手中に収める。

◆永禄9(1566)年5月19日: 松永久秀が河内へ奔る。

◆永禄9(1566)年6月8日: 藤政(筒井順慶)筒井城を奪還する。

◆永禄9(1566)年9月25日: 藤政(筒井順慶)、5000を率いて南都に入り、多聞城を攻める。

◆永禄9(1566)年9月26日: 藤政(筒井順慶)、春日社に参詣。

◆永禄9(1566)年9月28日: 宗慶大僧都を戒師として成身院で得度し藤政から陽舜房順慶と改名。(『多聞院日記』)


◆◆永禄10(1567)年◆◆

◆永禄10(1567)年4月18日~10月11日: 東大寺大仏殿の戦い(『東大寺記録写』)

◆永禄10(1567)年4月18日: 三好三人衆・池田軍一万余が奈良に布陣。

◆永禄10(1567)年4月24日: 筒井軍、奈良に出陣。

◆永禄10(1567)年5月17日: 池田軍は西芳寺に、三好下野守は西ノ坂に移陣。

◆永禄10(1567)年5月18日: 松永軍、般若寺に放火。

◆永禄10(1567)年10月10日: 松永対筒井・三好三人衆等の決戦で東大寺大仏殿焼失。三好勢敗る。

◆永禄10(1567)年11月2日: 三好、池田軍の残留部隊を率いて、春日社大鳥居附近で松永軍と戦う。


◆◆永禄11(1568)年◆◆

◆永禄11(1568)年5月19日: 筒井順慶、三好氏の重臣・篠原長房に対し、薬師寺西京付近に陣取ることがないように通牒する。(薬師寺文書『筒井順慶書状』)

◆永禄11(1568)年9月30日: 筒井順慶を裏切った菅田・箸尾衆が七条郷を焼く。

◆永禄11(1568)年10月4日: 松永久秀、織田信長に謁して忠義を誓う。

◆永禄11(1568)年10月6日: 松永久秀軍が筒井郷に侵入。

◆永禄11(1568)年10月8日: また筒井城を失い、筒井順慶、福住に逃げる。

◆永禄11(1568)年10月10日: 松永久秀応援のため、織田軍二万が出陣してくる。

◆永禄11(1568)年11月10日: 十市遠勝が籠る大西城陥落。十市遠勝は松永久秀に寝返る。

◆永禄11(1568)年11月: 松永、織田軍は布施郷を焼く。

◆永禄11(1568)年12月7日: 松永軍は越智衆が籠る貝吹城を攻めて敗退。


◆◆永禄12(1569)年◆◆

◆永禄12(1569)年4月15日: 松永久秀、久通父子が葛下郡上牧村の片岡春利を攻める。

◆永禄12(1569)年4月25日: 筒井方の万歳平城が松永久秀の手に落ちる。

◆永禄12(1569)年10月24日: 十市遠勝死去。以後家中に内証を生ずる。

◆永禄12(1569)年11月4日: 貝吹山城が松永軍のため落城。

◆◆永禄13(1570)年/元亀元(1570)年(4月23日~)◆◆

◆元亀元(1570)年4月: 再び井戸城を失う。

◆元亀元(1570)年7月27日: 筒井順慶、僧兵500と十市城に入る。

◆元亀元(1570)年8月20日: 筒井順慶、福住城に入る。


◆◆元亀2(1571)年◆◆

◆元亀2(1571)年5月8~11日: 松永久秀、窪之庄城を攻める。

◆元亀2(1571)年5月30日: 武田信玄と通じた松永久秀は、織田信長の牽制のため出陣し、織田信長に叛旗。

◆元亀2(1571)年7月3日: 井戸良弘、添上郡辰市村に築城。

◆元亀2(1571)年7月5日: 筒井軍、松永方の櫟本付城を攻め落とす。

◆元亀2(1571)年8月4日: 松永久秀、筒井順慶の守る辰市城を攻め、大敗。筒井城を捨てる。

◆元亀2(1571)年8月6日: 筒井順慶、松永衆の首240を織田信長に送る。

◆元亀2(1571)年8月7日: 布施衆が高田城の山城を落とす。

◆元亀2(1571)年10月5日: 筒井順慶、摩下諸将と筒井城内で祝宴。

◆元亀2(1571)年11月1日: 筒井順慶は、佐久間信盛、明智光秀のとりなしで松永久秀と和睦を結ぶ。


◆◆元亀3(1572)年◆◆

◆元亀3(1572)年1月11日: 慈明寺順国の子、定次筒井順慶の猶子とする。

◆元亀3(1572)年4月29日: 筒井軍、大安寺の辺りで松永兵200と交戦。

◆元亀3(1572)年5月9日: 多聞城威圧のため、東大寺南門に陣取る。

◆元亀3(1572)年7月29日: 松永久秀、山城国木津郷の刈田をする。

◆元亀3(1572)年11月19~20日: 松永軍が片岡郷を焼く。


◆◆元亀4(1573)年/天正元(1573)年(7月28日~)◆◆

◆元亀4(1573)年4月20日: 武田信玄陣歿。

◆元亀4(1573)年5月: 多聞城に拠った松永久秀が織田信長に抗した。

◆元亀4(1573)年5月16日: 筒井順慶、松永久秀を牽制のため奈良三条口に兵を派す。

◆元亀4(1573)年7月19日: 織田信長が15代将軍足利義昭を京都から追放し、室町幕府滅亡す。

=====<安土桃山時代(1573~1603年)>=====

   (戦国時代(1467~1590年))

◆◆元亀4(1573)年/天正元(1573)年(7月28日~)◆◆

◆元亀4(1573)年7月19日: 織田信長が15代将軍足利義昭を京都から追放し、室町幕府滅亡す。(但し、足利義昭は、天正16年(1588年)1月13日に秀吉に従って参内し、将軍職を辞すまでは将軍を解官されてはおらず、信長の勢力圏外においては依然将軍としての権威を保持。)

◆天正元(1573)年12月26日: 松永久秀、多聞城を佐久間信盛に渡して信貴山城に退く。


◆◆天正2(1574)年◆◆

◆天正2(1574)年1月1日: 筒井順慶、春日社参詣。

◆天正2(1574)年1月11日: 明智光秀が多聞城の定番に入る。

◆天正2(1574)年2月1日: 筒井順慶、明智光秀を訪問。

◆天正2(1574)年2月21日: 筒井順慶、岐阜へ出立。

◆天正2(1574)年2月29日: 筒井順慶、帰国。

◆天正2(1574)年3月9日: 筒井順慶、高田、岡、箸尾氏を伴い上洛。

◆天正2(1574)年3月23日: 筒井順慶母大方を人質として勝龍寺に送る。

◆天正2(1574)年3月27日: 織田信長、多聞城に入る。

◆天正2(1574)年4月4日: 筒井順慶母大方を勝龍寺に見舞う。

◆天正2(1574)年7月30日: 筒井順慶、春日社に詣す。(『多聞院日記』)

◆天正2(1574)年: 山田道庵歿。


◆◆天正3(1575)年◆◆

◆天正3(1575)年2月17日: 筒井定次に、織田信長の三女・織田秀子が嫁ぐ。

◆天正3(1575)年2月27日: 織田信長、筒井順慶に祝言す。

◆天正3(1575)年3月3日: 織田信長上洛。筒井順慶   (『大外記中原師廉記』)

◆天正3(1575)年3月: 織田信長、大和を原田直政に与う。

◆天正3(1575)年4月6日: 筒井順慶、河内の一向一揆攻めに出陣。

◆天正3(1575)年4月14日: 筒井順慶、明智光秀、細川藤孝、原田直政と共に石山本願寺を攻める。

◆天正3(1575)年4月21日: 筒井順慶、大坂より帰国。

◆天正3(1575)年4月24日: 筒井順慶、在京の織田信長を尋ねる。

◆天正3(1575)年5月17日: 筒井順慶、武田勝頼を攻める織田信長に鉄砲隊50余を派遣。

◆天正3(1575)年8月9日: 筒井順慶、摩下諸将を率いて越前に出陣。


◆◆天正4(1576)年◆◆

◆天正4(1576)年2月25日: 松永久秀が森屋城を落とす。

◆天正4(1576)年3月20日: 松永金吾、十市平城を攻め落とす。

◆天正4(1576)年4月: 筒井順慶、織田信長の本願寺攻めの命を受けて出陣。

◆天正4(1576)年5月3日: 大和守護・原田直政、本願寺攻めで戦死。

◆天正4(1576)年5月5日: 奈良に在住の15~60歳までの男子に出陣を令す。

◆天正4(1576)年5月10日: 筒井順慶、織田信長より大和国の守護職に任ぜられる。(『多聞院日記』)

◆天正4(1576)年11月11日: 筒井順慶の母大方が人質を解かれ、筒井に帰国。

◆天正4(1576)年11月24日: 筒井順慶筒井定次(「筒井」)、十市後室(「十後室」)を同伴し、安土城を訪問。(『多聞院日記』)


◆◆天正5(1577)年◆◆

◆天正5(1577)年2月13日: 筒井順慶、雑賀一揆衆の攻防に出陣。

◆天正5(1577)年2月25日: 筒井順慶、紀州より帰国。

◆天正5(1577)年6月: 織田信長の下命で多聞城の破却を始める。

◆天正5(1577)年8月17日: 松永久秀・松永久通、また織田信長に叛して信貴山に籠る。

◆天正5(1577)年10月1日: 松永兵は籠る片岡城を筒井、細川、明智軍が攻略。

◆天正5(1577)年10月4日: 信貴山、毘沙門堂、兵火に焼失。

◆天正5(1577)年10月10日: 織田信忠、筒井順慶、惟任光秀、羽柴秀吉ら、信貴山城を陥れ、松永久秀親子自害。

◆天正5(1577)年10月20日: 天正5年9月、松永久秀・久通 親子が石山本願寺攻めから離脱し、織田信長に反旗を翻して信貴山城に籠城した。このため、筒井順慶に「明智光秀を丹波に派遣するよう申し付けた。筒井順慶は森河内城に勤番し、大坂への通路の警備や夜の待ち伏せなどに油断しないよう」と指令する朱印状を出す。(羽田八幡宮文庫 織田右大臣信長公御書翰『大和筒井順慶宛朱印状』)

◆天正5(1577)年11月23日: 夜中に筒井順慶、南都へ戻り、興福寺へ織田信長の意向を伝える。『戒和上昔今禄』


◆◆天正6(1578)年◆◆

◆天正6(1578)年1月16日: 龍王山城破却始める。

◆天正6(1578)年3月13日: 上杉謙信急逝。

◆天正6(1578)年4月27日: 筒井順慶、摩下諸将と播磨に出陣。

◆天正6(1578)年8月: 筒井順慶、羽柴秀吉軍と共に丹波に入る。

◆天正6(1578)年8月22日: 筒井順慶、帰国。

◆天正6(1578)年9月15日: 筒井順慶、堺の今井邸で行われた茶会に出席。

◆天正6(1578)年10月7日: 筒井順慶、十市に出陣。

◆天正6(1578)年10月9日: 筒井軍、吉野郡の一向宗徒を討つ。

◆天正6(1578)年10月11日: 筒井軍、飯貝、下市、上市を占拠。

◆天正6(1578)年12月11日: 筒井順慶、三木城攻めの羽柴秀吉に合力のため出陣。

◆天正6(1578)年: この年、郡山築城始まる。


◆◆天正7(1579)年◆◆

◆天正7(1579)年1月3日: 筒井順慶、播磨より帰国。

◆天正7(1579)年2月12日: 筒井順慶、二月堂に参籠。

◆天正7(1579)年3月16日: 筒井順慶、十市後室、上洛す。『多聞院日記』

◆天正7(1579)年4月10日: 筒井順慶、再度播磨に出陣。

◆天正7(1579)年5月4日: 筒井順慶、西丹波に転戦。


◆◆天正8(1580)年◆◆

◆天正8(1580)年: 筒井市栄える。

◆天正8(1580)年3月17日: 筒井順慶、会ヶ峰で鉄砲鋳造。

◆天正8(1580)年8月17日: 織田信長から郡山城のほかの諸城破却令受く。

◆天正8(1580)年9月: 明智光秀、瀧川一益、南都滞在。

◆天正8(1580)年9月26日: 織田信長、大和国に指出を命ずる。

◆天正8(1580)年10月28日: 岡弥次郎、高田当次郎、戒重、大仏供、指出奉行明智光秀、瀧川一益から死罪に処せられる。

◆天正8(1580)年11月9日: 筒井順慶、織田信長により「大和一円筒井存知」の知行を与えられ、大和国の統一を果たし、大和国に平和を取り戻す。

◆天正8(1580)年11月12日: 筒井順慶、郡山城に入る。

◆天正8(1580)年11月24日: 筒井順慶、郡山辰巳父子を矢田で成敗す。

◆天正8(1580)年12月19日: 筒井順慶、坂本城に明智光秀を表敬訪問。


◆◆天正9(1581)年◆◆

◆天正9(1581)年1月22日: 傳香寺伝来の『筒井太夫順武画像』の本紙背面には「天正九年辛巳正月廿二日新圖繪之奉寄進者也、繪別曾五師穏英實賢権大僧都」と記す貼紙が残る。少なくとも順慶公の時代に、筒井一族の家祖が順武公であると言う認識を持っていた事の証左でもある。

◆天正9(1581)年2月28日: 筒井順慶、織田信長が京都で挙行した馬揃えに参加。

◆天正9(1581)年6月3日: 吐田遠秀を筒井衆が額田部で殺害。

◆天正9(1581)年8月17日: 明智光秀、郡山城普請見舞いのため来城。『多聞院日記』

◆天正9(1581)年8月27日: 布施氏の女性を筒井順慶の養女となし、明智光秀の仲介で箸尾高春に嫁がせる。『多聞院日記』

◆天正9(1581)年9月:

 ・筒井順慶、織田信長の伊賀征討に従う。

 ・筒井順慶、島左近に千石を与う。


◆◆天正10(1582)年◆◆

◆天正10(1582)年3月2日: 筒井順慶、信濃出陣(武田勝頼)のため第一陣を派す。

◆天正10(1582)年3月3日: 筒井順慶自身出陣。

◆天正10(1582)年3月11日: 武田勝頼、天目山で自害。

◆天正10(1582)年4月7日: 筒井軍主力が帰国。

◆天正10(1582)年4月21日: 筒井順慶郡山城に帰る。

◆天正10(1582)年5月1日: 筒井順慶、春日社に参詣。

◆天正10(1582)年6月2日: 

 ・本能寺の変。信長殺さる。

 ・明智光秀、筒井順慶を招くが、去就を決するため郡山城で評定。

◆天正10(1582)年6月3日: 筒井勢、大安寺、辰市、東九条(現・奈良市)に兵を派す(陣取って待機)。(『多聞院日記』)

◆天正10(1582)年6月9日: 筒井勢、郡山城に兵糧(塩米)を搬入して籠城に備える。(『多聞院日記』)

◆天正10(1582)年6月10日: 筒井順慶、羽柴秀吉に合力を誓う使者を派す。

◆天正10(1582)年6月14日: 井戸若狭守良弘、万歳越智の先鋒を京都に派す。

◆天正10(1582)年6月15日:

 ・筒井順慶、千余を率いて醍醐(現・京都市伏見区)で羽柴秀吉に面謁す。(『多聞院日記』)

 ・筒井順慶、羽柴秀吉より大和国を安堵さる。

◆天正10(1582)年6月27日: 織田信長の遺領を決める清州会議に出席。宇智宇陀郡叛領。

◆天正10(1582)年7月11日: 豊臣秀吉に人質として筒井定次を出す。

◆天正10(1582)年9月13日: 筒井順慶、奈良に撰銭令を発する。

◆天正10(1582)年10月15日: 筒井順慶、大徳寺で行われた織田信長の葬儀に参列。

◆天正10(1582)年12月7日: 筒井順慶、豊臣秀吉の下令で美濃に出陣。

◆天正10(1582)年12月27日: 筒井順慶郡山城に帰る。


◆◆天正11(1583)年◆◆

◆天正11(1583)年1月11日: 筒井順慶成身院へ年賀。

◆天正11(1583)年1月29日: 筒井順慶、豊臣秀吉の命令で近江草津に諸将を率いて出陣。

◆天正11(1583)年2月12日: 筒井順慶、豊臣秀長に属し、土岐多羅口から伊勢に進出(織田信孝)。

◆天正11(1583)年3月3日: 桑名城落城。

◆天正11(1583)年4月3日: 筒井順慶、大和に戻る。

◆天正11(1583)年4月22日: 郡山城天守閣竣工。(『多聞院日記』)

◆天正11(1583)年4月24日: 柴田勝家、北庄で自害。

◆天正11(1583)年4月25日: 筒井順慶、再び近江へ出陣。

◆天正11(1583)年4月26日: 筒井順慶、大和帰国。

◆天正11(1583)年5月7日: 筒井順慶、伊賀に出陣。

◆天正11(1583)年5月10日: 筒井順慶、南伊賀で苦戦を強いられる。

◆天正11(1583)年5月20日: 筒井順慶、郡山城に帰城。

◆天正11(1583)年6月2日: 筒井順慶、織田信長の一周忌に参列。

◆天正11(1583)年8月26日: 

 ・越智玄蕃頭暗殺。

 ・松倉彌八郎、知行3千石与えらる。

◆天正11(1583)年: 筒井順慶成身院で茶の湯を楽しむ。


◆◆天正12(1584)年◆◆

◆天正12(1584)年: 郡山市始まる。

◆天正12(1584)年1月1日: 筒井順慶、大坂城において、豊臣秀吉に年賀。

◆天正12(1584)年3月13日: 筒井順慶、近江に出陣。

◆天正12(1584)年3月17日: 筒井軍、滝川衆の急襲を受ける。

◆天正12(1584)年4月: 筒井順慶、小牧の役に伊勢松ヶ嶋を攻略。

◆天正12(1584)年6月: 筒井順慶、長島を攻め、織田信雄を討つ。

◆天正12(1584)年6月: 筒井順慶、美濃竹ヶ鼻城を攻める。

◆天正12(1584)年6月10日: 美濃竹ヶ鼻城落城。

◆天正12(1584)年6月11日: 筒井順慶、大和へ帰国。

◆天正12(1584)年8月11日: 筒井順慶郡山城で死去(36歳)。もともと筒井庄筒井氏の菩提寺としてあり、その後奈良に移され筒井氏の別業の役をなしていた奈良の円証寺(近年生駒市に移転)に仮埋葬される。遺骸は筒井古城近くで筒井順慶の菩提寺として引き継いだ寿福院(明治に寺籍を失い、同地に現在の本門寺創建される)に葬られ(1585年造営の筒井順慶廟:現在郡山市所領)、一方で生母・芳香宗英順慶の位牌所として奈良に傳香寺を建立。『春日社司祐国記』

◆天正12(1584)年8月12日: 

◆天正12(1584)年9月: 馬借一揆起り、主課者宮岡らを討つ。

◆天正12(1584)年10月: 筒井定次筒井家を継ぐ。

◆天正12(1584)年10月9日: 筒井定次、家督継承の御礼言上のため大坂城訪問。

◆天正12(1584)年10月15日: 筒井順慶の葬儀。

◆天正12(1584)年10月21日: 筒井定次、美濃、尾張に出陣。

◆天正12(1584)年11月18日: 筒井定次郡山城へ帰る。


◆◆天正13(1585)年◆◆

◆天正13(1585)年1月4~5日: 筒井定次郡山城で年始の諸将の祝宴。

◆天正13(1585)年3月21日: 筒井定次、豊臣秀吉の陣触れで紀伊根来、雑賀攻めに出陣。

◆天正13(1585)年4月25日: 筒井定次、雑賀城落城により帰国。

◆天正13(1585)年5月5日: 傳香寺筒井順慶位牌堂が完成。以来傳香寺筒井氏の総菩提所になる。

◆天正13(1585)年5月26日: 筒井定次、坂本城で病床の豊臣秀吉を見舞う。

◆天正13(1585)年6月27日: 筒井定次、四国征討(長宗我部元親)に出陣。

◆天正13(1585)年8月11日: 重要文化財である仏殿・傳香寺本堂は、順慶法印一周忌に建立される。

◆天正13(1585)年8月18日: 筒井定次伊賀上野20万石に転封。豊臣秀吉によって筒井氏興福寺の深い関係を切り離すのも転封の一因と思われる。

◆天正13(1585)年8月23日: 筒井定次、四国から引き揚げる。

◆天正13(1585)年8月24日: 筒井定次、伊賀上野に向う。

◆天正13(1585)年9月3日: 豊臣秀長、郡山城入城。

◆天正13(1585)年: 筒井定次、平楽寺・薬師寺のあった台地に近世城郭としての伊賀上野城を築く。


◆◆天正14(1586)年◆◆

◆天正14(1586)年3月8日: 筒井定次、再び大和国に帰国した場合を想定し、堀江源六と松川九郎から没収した土地につき、稲地主水助宗光の求めに応じ安堵す。(『稲地主水助宗光宛て 天正14年3月8日付け筒井定次判物』)


◆◆天正15(1587)年◆◆

◆天正15(1587)年2月10日: 筒井定次、島津征討のため1500人を率いて出陣。

◆天正15(1587)年3月: 松倉重政、名張を去り成身院に入る。

◆天正15(1587)年6月19日: 豊臣秀吉、九州平定後、博多で禁令(「定」五箇条(通称:伴天連追放令))を発す。(『松浦文書』)


◆◆天正18(1590)年◆◆

◆天正18(1590)年2月27日: 筒井定次、豊臣秀吉の小田原・北条氏攻めに出陣。(『多聞院日記』)

◆天正18(1590)年3月28~29日: 筒井定次、織田信雄に属し、韮山城攻めに参陣。

◆天正18(1590)年6月24日: 韮山城落城。

◆天正18(1590)年7月6日: 小田原城落城。


◆◆天正19(1591)年◆◆

◆天正19(1591)年月日: 

◆◆天正20(1592)年/文禄元(1592)年(12月8日~)◆◆

◆天正20(1592)年7月下旬~10月中旬: 筒井定次、肥前名護屋城でキリシタン宗門の談義を聞き、三箇マンショ頼連の勧めもあり、長崎に赴いてアレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父よりキリスト教の洗礼を受ける。(羽柴豊臣朝臣秀吉が生母大政所重病の報せを受けて名護屋城 を留守にした時期と推定:『キリシタン大名 布教・政策・信仰の実相』)

◆文禄元(1592)年月日: 


◆◆文禄2(1593)年◆◆

◆文禄2(1593)年7月7日: 松倉重信歿(55歳)。


◆◆文禄5(1596)年/慶長元(1596)年(10月27日~)◆◆

◆文禄5(1596)年月日: 

◆慶長元(1596)年月日: 


◆慶長5(1600)年9月15日: 関ヶ原の役起る。東軍に属し、西軍に奪われた伊賀上野城奪回。


◆慶長6(1601)年1月5日: 藤太郎(筒井順定(としさだ))、伊賀国にて生る。父は筒井定次。母は織田信長三女・織田秀子。(『多聞院日記』)

=====<江戸時代(1603~1868年)>=====

◆慶長8(1603)年2月12日: 徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立。


◆慶長11(1606)年12月23日: 伊賀上野城火災のため罹災。


◆◆慶長13(1608)年◆◆

◆慶長13(1608)年5月: 筒井定次、不審のため駿河下向。

◆慶長13(1608)年6月20日: 徳川家康に、筒井家改易される。

◆慶長13(1608)年7月1日: 松倉重政、大和二見城主(1万石)となる。


◆◆慶長19(1614)年◆◆

◆慶長19(1614)年1月1日: 筒井領東山中十ヶ村一揆。

◆慶長19(1614)年: 筒井主殿(筒井定慶)郡山城在番(1万石、与力36騎)。


◆◆慶長20(1615)年/元和元(1615)年(7月13日~)◆◆

◆慶長20(1615)年3月5日: 筒井侍従定次(55歳)、筒井宮内少輔順定、自害。

◆慶長20(1615)年4月27日: 大野主馬勢、郡山城を攻め、筒井主殿福住へ逃げる。

◆慶長20(1615)年6月12日: 筒井主殿(筒井定慶)、南都で自害。(但し、「自刃」説が有力とされるが、「自害と称して地元の福住に隠棲した」との伝承も残る。)

◆慶長20(1615)年7月11日: 松倉重政、肥前島原城主(43,000石)に移封。


◆享保2(1717)年:

 ・興福寺が火災に遭い、この際、筒井氏累代の関係文書も失ったものと推測される。

=====<明治時代(1878~1912年)>=====

=====<大正時代(1912~1926年)>=====

=====<昭和時代(1926~1989年)>=====

◆戦前: 東京や福岡等で、地域の筒井氏同族会が設立される。

◆昭和35(1960)年: 現在の同族会の前身である筒井氏同族会が傳香寺を中心に設立される。

◆昭和58(1983)年9月11日: 現在の傳香寺全国筒井氏同族会(現在休止中)が再興設立され、傳香寺に筒井順慶座像と御堂が造立る。

=====<平成時代>(1989~2019年)=====

◆平成30(2018)年1月9日: 当会・筒井氏同族研究会設立。

=====<令和時代>(2019年~)>=====

◆令和2(2020)年1月9日: 筒井氏同族研究会の当ホームページ開設。

◆令和2(2020)年6月2日: 438年の歴史を経て、新たな歴史事実「反・明智光秀を明言していた大和の筒井順慶」を公表!!

◆令和2(2020)年7月12日: 令和2(2020)年6月2日に公表した反・明智光秀を明言していた大和の筒井順慶」に関する詳細情報を開示!