『満済准后日記』(まんさい じゅごう にっき)
醍醐寺第74代座主で「黒衣の宰相」の異名を取った真言宗の僧・満済(1378~1435)が記した、応永18(1411)年1月~永享7(1435年)までの自筆日記で、『法身院准后日記』とも呼ばれる。尚、途中に欠落もある。
満済は、権大納言藤原師冬の子で、将軍足利義満の猶子となっている。将軍足利義満(よしみつ)、足利義持(よしもち)、足利義教(よしのり)の護持僧として信頼あつく、幕政にも深く関与していたため、『満済准后日記』は当該政治史の一級史料とされる。
大和永享の乱が続いていた大和国では、 筒井氏は室町幕府の支援を受けており、正長2/永享元(1429)年~永享7(1435)年に渡り、合計22日分の記述において、筒井氏に関する記述が見つかる。当時の惣領・筒井覚順(記述としては「筒井覚順」・「南都衆徒筒井」・「南都筒井」・「筒井」など)をはじめ、成身院光宣(記述としては「南都六方衆成身院光宣」・「成身院光宣」・「成身院」・「筒井伯父」など)、筒井五郎(福住五郎;記述としては「筒井伯父五郎」・「筒井幷伯父五郎」など)、筒井順弘(記述としては「筒井」だがここでは年代で判断)などが現る。
また、同時代に『看聞日記』や『大乗院寺社雑事記』での筒井城は、「筒井館」との記述であるが、この『満済准后日記』では「筒井城」の記述で記載されている。
ところで、古い資料では、筒井覚順のことが無視され、筒井順覚のこととして記述されるものが少なくないが、『東大寺文書』や、この資料でも2か所で「筒井覚順」と記述されており、また、成身院光宣と筒井五郎(福住五郎)を「筒井伯父」と表現していることなどから、「筒井覚順」と「筒井順覚」とは異なる別の人物であることが判断できる。
ちなみに、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧が可能であるが、翻刻版としては、昭和3(1928)年に、 塙保己一氏が、続群書類従完成会より『続群書類従 補遺1』と『続群書類従 補遺2』の2冊で出版されている。
具体的には、以下の各条をご参照下さい。
・正長2(1429)年: 2月25日条、3月2日条、3月6日条、4月10日条、4月11日条、4月12日条、〔9月5日に永享元年に改元〕11月24日条、12月2日条、12月3日条
・永享2(1430)年: 8月26日条
・永享3(1431)年: 8月27日条、8月30日条
・永享4(1432)年: 9月29日条、10月3日条、10月4日条、10月10日条
・永享6(1434)年: 8月15日条、8月16日条、8月17日条
・永享7(1435)年: 1月22日条、1月24日条
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