美濃竹ヶ鼻城の水攻め

 岐阜県羽島市で活動をされておられる不破源六廣綱公顕彰会(※)の奥村和磨様から、ご質問と共に、竹ヶ鼻城跡に関するお写真や筒井氏に関わる情報を頂きました。ご快諾頂きましたので、このブログでご紹介させて頂きます。

 ご質問は、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いに際して発生した、いわゆる「竹ヶ鼻城の水攻め」に関するものです。

 もし関連情報をお持ちの方がおられましたら、ご連絡頂けますと幸いです。


 以下写真は、令和2(2020)年7月18日に、「不破源六廣綱公顕彰会」奥村和磨様撮影。城跡とされる地に「竹ヶ鼻城」をイメージした「羽島市歴史民俗資料館・羽島市映画資料館」。


【ご質問の概要】 竹ヶ鼻城の水攻めを行うに当たって築いた人工堤防の決壊が発生し、その被害を受けたのが秀吉陣営にあった筒井順慶公の陣であったらしい。筒井氏側から見た被害状況などを記した記録がないであろうか


【背景補足】 この水攻めは、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いに際して発生した「竹ヶ鼻城の水攻め」に関するもので、織田信雄の陣営にあり竹ヶ鼻城に籠城した城主・不破広綱に対し、羽柴秀吉陣営は足近川の水を引き入れて城を水攻めにすることにし、天正12(1584)年5月に人工堤防の突貫工事を行われた。

 そして、攻防戦の最中にその堤が自然崩壊したとも、城兵が破壊したともされており、『長久手町史』や『羽島市史』などには、この堤防決壊によって被害を受けたのが、羽柴秀吉陣営として寄せ手に加わっていた筒井順慶の陣とされているというもの。

 なお、竹ヶ鼻城は天正12(1584)年6月10日に落城。不破広綱は落城後、伊勢長島に落ち延びて不破一色村(現羽島市内)に一時隠棲し、後に尾張一宮城主に。主君・織田信雄が改易された後は、旧知の前田利家の招きで加賀藩前田家に仕えている。


【回答の概要】 確認できた範囲の一次史料にはそれらしい記載が見つからず、堤防決壊による被害が発生していたかどうか分からない

 ちなみに、二次史料である『和州諸将軍傳』と『増補筒井家記』には、天正12(1584)年2月25日に筒井順慶が大坂で胃を悪くしていることが記載されおり、これら史料の情報が正しければ、この頃辺りから順慶の胃痛の悪化が日に日に進んでいるように思われる。

 また、『多聞院日記』では、同年7月8日より、順慶の体調悪化が記されており、祈祷が行われたなどの記載が見える。そして、同年8月11日、陽舜房法印筒井順慶寂す。三十六歳の若さだった。これにより養子四郎(定次)が筒井家を嗣いでいる。

 〔その他関係文書〕『西山文書』:天正十二年卯月十日付 (筒井順慶は、4月8日に伊勢松島より転じて尾張に向う。4月10日、近江日野附近に達する。)

 上記を踏まえ、「竹ヶ鼻城の水攻め」に関する記述がある文書において、筒井順慶の記載があるかどうか、ざっと確認した結果は、以下の通り。

〔記載なし〕

『野坂文書』、『不破文書』、『古案記』、『家忠日記』、『顕如上人貝塚御座所日記』、『多聞院日記』、『当代記』、『太閤記』、『勢州軍記』、『細川家記』、『一柳監物武功記』、『諸家譜』、『先祖軍功事跡』、『石川堀尾大久保北條先祖書』、『不破氏家牒』、『竹鼻守城録』、『江崎庸三氏所蔵文書』、『日本耶蘇会年報』、『訂正増補日本西教史』、『新撰豊臣実録』、『蒲生軍記』、『武徳編年集成』、『長久寺戦話』、『美濃古跡考』。

〔記載有り〕

◇『豊鑑』:豊臣秀吉の伝記。秀吉の家臣であった竹中重門の書。「竹ヶ鼻城の水攻め」の47年後である寛永8(1631)年、竹中重門が死の間際に擱筆の作。

大和國筒井順慶 陳所の前堤崩落」の記述あり。

◇『尾濃葉栗見聞集』:吉田正直の書。217年後の享和元(1801)年の作。

「長久手軍覚書 竹ヶ鼻城跡邉事

 (中略)

一 筒井順慶が持分江吉良村の東北の所まで、堤五十間程切る<今此所は池に成て有>、順慶陣所ハ狐穴村ニ要害有。<今名倉掃部居、俗名太郎兵衛>、鉄砲を伏せると云所有、

一 堤切所、竹ヶ鼻城より<午方六七丁>、江吉良と狐穴の間なり・・・」の記述あり。

 お問い合わせにあった「筒井軍は切所の近く、現在の地名でいうと狐穴に布陣していた事になっている。」の部分は、こちらの史料が出典となったものと推測される。



【ご提供頂いた追加情報】

◇『豊臣秀吉文書集 2』名古屋市博物館/編 -- 吉川弘文館に、筒井氏に関わる「小牧長久手陣立書」の情報の掲載があり、これらには、いずれにも順慶公の名前が明記されているものは無く、多くに筒井四郎(定次公)の名前が明記されている。

(1)1293 小牧長久手陣立書 『尾張國遺存豊臣秀吉史料写真集』:「三 二たん 筒井殿 合七千」

(2)1294 小牧長久手陣立書 『古文書纂』 東大史影写:「三 二たん 筒井殿 合七千」

(3)1302 小牧長久手陣立書 『秋田文書』 東大史影写:「右 先手 筒井四郎殿 千五百」・「左 先手 筒井殿 合弐千」、「筒井四郎殿 旗本 合参千」

(4)1303 小牧長久手陣立書 『護国八幡宮文書』 東大史影写:「右 筒井四郎殿 先手 合千五百」・「左 筒井四郎殿 先手 合弐千」、「筒井四郎殿 合参千」

(5)1304 小牧長久手陣立書 『思文閣古書資料目録』 「右 筒井四郎殿 先手 合千五百」・「左 筒井四郎殿 先手 合二千」、「筒井四郎殿 はたもと 合三千」

(6)1305 小牧長久手陣立書 『浅野文書』 東大史影写 「筒井四郎 先手」、「左 筒井四郎 先手」、「筒井四郎

(7)1307 小牧長久手陣立書 『大阪城天守閣』 「筒井四郎 先手」、「左 筒井四郎 先手」、「筒井四郎

(8)1308 小牧長久手陣立書 『下郷共済会所蔵文書』 東大史写真 「筒井四郎 先手」、「左 筒井四郎 先手」、「筒井四郎

(9)1309 小牧長久手陣立書 『思文閣古書資料目録』  「筒井四郎 先手」、「左 筒井四郎 先手」、「筒井四郎


【継続調査事項】

・「竹ヶ鼻城の水攻め」の際の、順慶の状況。

・「竹ヶ鼻城の水攻め」で、筒井軍が人工堤防の決壊で被害を被っていたのか。

・史実としての「小牧長久手陣立書」の陣容。



(※)「不破源六廣綱公顕彰会」は、本年・令和3(2021)年に発足され、(名鉄・羽島市役所前駅の近くにあった)竹ヶ鼻城とその城主・不破広綱やその他地元郷土史に関して研究されておられます。

 以下案内板の写真は、平成29(2017)年4月9日、「不破源六廣綱公顕彰会」奥村和磨様撮影。

筒井氏同族研究会

大和の戦国大名・筒井順慶をはじめとする筒井氏を調査研究する団体です。 一族郎党の子孫や研究者だけでなく、筒井氏に興味のある方ならどなたでも歓迎します。 筒井氏の謎を一緒に解明していきましょう。

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