筒井 春俊(春次)について(2)

文責: 清山 孝三郎


 私につながる豊後國 國東郡 田福(多福)村 字有安の筒井家の祖は、慶長13(1608)年に徳川家によって改易とされた筒井定次の二男・筒井春俊(つつい はるとし)です。一般には筒井春次とされているようです。

 

 春俊と言う若武者は徳川の手を逃れ、田福(多福)村字有安にたどり着き、保身の為に姓氏を隠し、佐々木長左ェ門森重のすすめに従い、佐々木の氏族の中に没入して農民となり、名を重右ェ門と改めました。

 昭和35年(1960年)11月3日に纏められた田福有安・筒井家の家系譜『筒家里(とう かり)』には、以下の記述もあります。


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筒井氏と佐々木氏

 樋口墓地、および、山田墓地の古い墓標の中には、筒井一族の人で佐々木の苗字を冠せられている人が少なくない。

これは次の理由に依るのである。

 田福有安に於ける筒井の先祖 重右ェ門殿が、元和の昔、佐々木の氏族に没入したのは、徳川幕府の目をのがれる為の保身の手段であった。

爾来、約250年間の江戸時代は、農民として表面姓氏を名乗る必要もなく、形式上佐々木氏に同化していたからである。

しかし、明治3(1870)年庶民に苗字を許されることになって、にわかに大きく転回して一気に筒井の氏に復帰したことは、実に驚嘆に値する大英断で、子孫たるものの感激にたえない処である。

 そもそも日本民族は、遠い昔から、家柄や門閥を誇る風習があっかたが、特に源平時代以降、鎌倉、室町、江戸の各時代を通じて、武家政治の発達伸展は、此の傾向を更に強からしめた。

我が筒井一族の人たちも例外ではなかった。

表向きに苗字を名乗るとすれば、250年も同化していた佐々木とすれば、何の煩わしさも無かったのに、敢えて筒井に帰ったのは、そこに大きな理由があったればこそである。

我が田福有安に於ける一族にとっては、この苗字決定は先祖を顕彰し、子孫に栄光をもたらす重大事件であるから、当然全戸の会議を開いた結果、保身の為の辛抱や隠忍も、徳川幕府は倒れ明治の新政にかわったのだから、何の顧慮を払う必要もなくなった。

堂々と筒井と名乗ることに踏み切ったのである。

其の時の主だった人を次に掲げて其の徳を称えたい。

  筒井休蔵筒井俊平筒井俊八

  筒井周平筒井長平

  筒井健十

  筒井久八筒井弥八

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 さて、『筒家里』には、昭和35年時点で十分調査仕切れなかった樋口墓地の奥の 古いご先祖様の墓標についても記述がある。それらの一部を2005年11月20日に、荊の中で偶然見つけ ることが出来たので、ここでご紹介したい。

 これらの墓石には、曹洞宗であろうか、「空」の冠字と共に戒名が刻まれている。 また、読める範囲で一番古い墓石には寶永二年(1707年)とあるが、他にも『筒家里』 に記載されていない古い墓石もいくつか荊の中にあることに気づいた。将来時間を 創って再度訪れ、調査したいものである。


 同じ筒井氏、佐々木氏に関わる伝承等をお持ちの方からのご連絡、情報提供をお待ち致しております。 宛先: searching_history@yahoo.co.jp


当ページの写真は、2005年11月20日に撮影した上述の樋口墓地の奥の古いご先祖様の墓石。

筒井氏同族研究会

大和の戦国大名・筒井順慶をはじめとする筒井氏を調査研究する団体です。 一族郎党の子孫や研究者だけでなく、筒井氏に興味のある方ならどなたでも歓迎します。 筒井氏の謎を一緒に解明していきましょう。

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