筒井 春俊(春次)について(3)

文責: 清山 孝三郎


 私につながる豊後國 國東郡 田福(多福)村 字有安の筒井家の祖は、慶長13(1608)年に徳川家によって改易とされた筒井定次の二男・筒井春俊(つつい はるとし)です。一般には筒井春次とされているようです。

 昭和35(1960)年11月3日に、一族の人間であり、豊後高田の郷土史家であった筒井清芳(つつい せいほう)氏によって纏められた田福有安・筒井家の家系譜『筒家里 (とうかり)』には、以下の記述もあります。


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『筒家里』

 題名の『筒家里(とうかり)』とは、筒井一族の里という意味であります。豊後高田市大字美和田福の、その又一小區域「有安(ありやす)」というこの土居は、私どもの子供の頃から人煙およそ十戸で、筒井の氏(うぢ)を名乗る人が大部分を占め、他の人もあったが、姻戚又は隣保の親しみで筒井一族と融和し、題名の示す如く筒家里、即ち筒井の里、筒井の邑でありました。これが私のもの心のついた明治30(1897)年頃から昭和35(1960)年の今日に至るまで、大きな変化は無いように見えます。

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 そして、『筒家里(とうかり)』である「有安(ありやす)」地区の歴史についても、触れられています。

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「有安」の土居

 「有安(ありやす)」には、昔豪族が住んでいたらしく、羅城式の遺構が地區内の主要部分を囲んでいる。

この遺構の工事は、大石を用いる後代の築城とはちがって、地面を掘って塹濠(ほり)をつくり、掘出した土を積み上げて壘壁(とりで)としたものである。ここでは東、西、北の三方はこの様式で施工し、南の一方は自然の断崖(がけ)を利用して要害としたものらしい。

築造の年代は鎌倉末期から室町の初期と見るべきであろう。

或、豪族が、家の子郎党と共にこの構内に住んだ。年がたつにつれて一族中の有力者は独立し、構内を分割して住んだこともあったであろう。

栄枯盛衰は世のならいで、この豪族も次第に影をひそめ、他の氏族がかわって住むようになり、構内の土地は更に分割されて個人の所有となった。

現在では道路がついたり、農地を拡げたりして地形もかわり豪族がつくった大部分の塹濠(ほり)も埋(うづ)まり。塁壁(とりで)は均(なら)されたが、仔細に観察すれば、尚昔の規模をうかがうことができる。

室町末期から江戸時代の中期までは、有安地區及その北側平井(ひれえ)地區に亘(わた)り波多氏佐々木氏等が栄えていたと思われるが、江戸時代中期以降漸次筒井氏が抬頭(だいとう)し、明治、大正、昭和とつづいてこの有安地區を、「筒井の土居」と呼ぶ程に、主として筒井氏一族が住むようになった。

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 その後の調査で、筒井春俊(春次)の足取りの解明につながる重要な鍵の1つを握っているのは、「佐々木氏」だけでなく「波多氏」もそうではないかと思い始めて来た。そのきっかけになった情報についても、今後ご紹介したい。

  佐々木氏、波多氏、筒井氏の関係者の方々からのご連絡、あるいは、その歴史に関する情報提供をお待ち致しております。 宛先: searching_history@yahoo.co.jp


当ページの写真は、2005年に撮影した「筒家里」である「有安(ありやす)」地区の一風景。



筒井氏同族研究会

大和の戦国大名・筒井順慶をはじめとする筒井氏を調査研究する団体です。 一族郎党の子孫や研究者だけでなく、筒井氏に興味のある方ならどなたでも歓迎します。 筒井氏の謎を一緒に解明していきましょう。

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