『天正記』(てんしょうき)

 天正年間の豊臣秀吉の活躍を記録する軍記物で、秀吉自身が御伽衆として仕えた大村由己(おおむら ゆうこ)に書かせた伝記。天正8(1580)年の三木合戦から天正18(1590)年の小田原征伐までの全12巻からなるが、現在4種の巻が失われている。


1.『播磨別所記

 天正6(1578)年3月29日~天正8(1580)年1月17日にかけて行われた織田氏と別所氏の三木合戦を中心に描かれている。天正13(1585)年には、貝塚で蟄居中の本願寺顕如・教如親子の前で由己本人が朗読したと伝わっているらしい。

 筒井順慶も、天正6(1578)年12月11日には、明智光秀や羽柴秀吉たちと共に、三木城攻めのため播磨に出陣し、大和帰国は翌天正7(1579)年1月3日になっている。

2.『惟任退治記

 天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から、天正10(1582)年6月13日の山崎の戦い、そして、天正10(1582)年10月15日に羽柴秀吉が大徳寺で執り行った織田信長の葬儀に至るまでが記述されている。天正10年(1582)年に成立。

 もちろん筒井順慶も信長の葬儀に参列している。

 国立国会図書館デジタルコレクションでは、惟任退治記』の翻刻版が閲覧可能で、『史籍集覧. 第13冊』(コマ172~177)に掲載されている。

3.『柴田退治記

 天正11(1583)年4月の賤ヶ岳の戦いとその前後の情勢。そして、天正11(1583)年11月に本拠移転した大坂城の築城などを記述している。天正11年(1583年)成立。

 国立国会図書館デジタルコレクションでは、柴田退治記』の翻刻版が閲覧可能で、『群書類従. 第拾四輯』(コマ176~181)に掲載されている。。

4.『紀州御発向記

 天正13(1585)年の紀伊征討の記録。

 筒井定次は、天正13(1585)年3月21日に出陣し、4月25日に雑賀城落城により大和帰国。

 国立国会図書館デジタルコレクションでは、紀州御発向記』の翻刻版が閲覧可能で、『史籍集覧. 第13冊』(コマ219~221)に掲載されている。

5.『任官之記

 天正13(1585)年7月11日の秀吉の関白就任の正当性を主張する書物。秀吉の祖父が萩中納言と呼ばれる貴人であり、母は宮中に出仕していたなど信憑性を疑われる記述が多く、後世の歴史家からは重視されていないらしい。天正13年(1585年)成立。

 この頃、筒井定次は、四国征伐中にあった。

  国立国会図書館デジタルコレクションでは、任官之記』の翻刻版が閲覧可能で、『史籍集覧. 第13冊』(コマ226~229)に掲載されている。

6.『四国御発向並北国御動座事

 四国征伐、および、越中国の佐々成政らとの戦いの記録。

 筒井定次は、長宗我部元親を討つべく天正13(1585)年6月27日に出陣し、8月23日に四国より引き揚げている。

 国立国会図書館デジタルコレクションでは、四国御発向並北国御動座事』の翻刻版が閲覧可能で、『史籍集覧. 第13冊』(コマ222~225)に掲載されている。

7.『聚楽行幸記

 天正16年(1588年)4月14日から5日間に渡って行われた、後陽成天皇の聚楽第への行幸の有様を記録した書物。天正16年(1588年)成立。

8.『金賦之記

 天正17年(1589年)5月20日に聚楽第で秀吉が諸大名に金銀を振舞ったことを記録した書物と推測されている。現在所在不明。

9.『大政所御煩平癒記

 秀吉の母の大政所が病から回復した記録と推測されている。現在所在不明。

10.『若公御誕生之記

 天正17(1589)年5月27日の豊臣鶴松誕生の記録と推測されている。現在所在不明。

11. 『西国征伐記

 天正14(1586)年7月~天正15(1587)年4月の九州征伐の記録と推測されている記事がネットにも多いが、順番的に朝鮮征伐の記録の可能性はないであろうか。現在所在不明。

12.『小田原御陣

 天正18(1590)年2~7月の小田原征伐(後北条氏攻め)の記録。

 筒井定次も、天正18(1590)年2月27日に出陣している。

筒井氏同族研究会

大和の戦国大名・筒井順慶をはじめとする筒井氏を調査研究する団体です。 一族郎党の子孫や研究者だけでなく、筒井氏に興味のある方ならどなたでも歓迎します。 筒井氏の謎を一緒に解明していきましょう。

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