『密教の聖地 高野山 その地に眠る偉人たち』
『密教の聖地 高野山 その地に眠る偉人たち』 平成30(2018)年1月15日、上永哲矢(1~2章執筆)・野田伊豆守(3~4章執筆)、サンエイ新書。
筒井順慶は、「高野山ゆかりの人物事典⑧ それぞれに乱世を生き、今は永き眠りにつく戦国武将たち」として、同書第2章のP.86~87に供養塔の写真と共に「激動の時を冷静に過ごし 仏教を篤く信仰した教養人」として記載されている。
また、公益財団法人 高野山文化財保存会 高野山霊宝館が、平成28(2016)年3月4日に発行した『霊宝館だより 第117号』のP.6~7の「高野山の考古学」(No.9として)のコラムでは、公益財団法人 元興寺文化財研究所の狭川 真一氏によると、筒井順慶の供養塔が最も古いであろうとの記述がある。また、奈良県大和郡山市筒井の地にある筒井順慶の墓についても触れられている。
『密教の聖地 高野山 その地に眠る偉人たち』P.87からの引用
「 「本能寺の変」の後、明智光秀が頼みにした武将は複数いるが、この筒井順慶もその一人である。光秀の子を養子(*)に迎えるなど親しく交流していた。しかし、彼は亡き信長のおかげで大和(奈良)の守護として御家の安泰をはかることができた義理を重視し、光秀には加勢しなかった。
「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」で、光秀に味方するか、秀吉に味方するかで日和見をしたとの逸話は有名だが、実際は居城の大和郡山城で軍議を重ねていたにすぎない。動かない順慶を頼みとして洞ヶ峠まで来たのは光秀のほうであった。結局光秀は敗れ、順慶は秀吉から本領を安堵されたが、36歳の若さで急死。筒井家は順慶の死から31年後、跡継ぎの定次が豊臣家に内通したとの疑いで徳川家に改易にされた。」
そして、「高野山奥之院の最奥部、御廟橋のやや手前に建つ筒井順慶の供養塔。彼を厚遇した織田信長の供養塔のすぐ隣にある。」ともある。
上記(*)に関しては、信憑性が乏しい。江戸時代中期の元禄の頃に書かれた『明智軍記』に、光秀は第六子で次男の次男の十次郎(定頼)を順慶の養子にしたとされているそうだが、そもそも『明智軍記』は誤謬も多く、他書の内容と整合しない独自の記述が多くあって裏付けに乏しく、一般的に史料価値は低いとされている。
『霊宝館だより 第117号』 P.6~7 からの引用
「 では、実際に造営された武将の墓で最も古いのは誰の墓でしょうか。簡単な表を作成して眺めてみると、そこに示したとおり、多くは近世に入ってからの造塔ですが、天正12(1584)年に死去した筒井順慶の石塔が、死歿年と塔の形態が一致しますので、おそらくこれが最古の事例と思われます。」
上記の写真は、当研究会会長が平成11(1999)年8月15日に撮影したもの。
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