2人の陽舜房と逆修墓
逆修(ぎゃくしゅ)とは、小学館のデジタル大辞泉によると、仏教用語であり、 「生前に、自分の死後の冥福 のために仏事をすること。」、「生前に、墓石に戒名を刻むこと。」などの意味が記してある。
すなわち、生前に自身のお墓を建て、戒名を授かると言う徳を積むことで、自ら死後の菩提とするために建てられたお墓が「逆修墓」と呼ばれる。
ここでは、2人の筒井陽舜房の逆修墓について触れたい。
1.成身院光宣(陽舜房僧都光宣)
華厳宗大本山・東大寺の塔頭で知足院(ちそくいん)の裏山
「逆修法印光宣
文明元年 己丑 十一月廿日
應仁二年 戌子 八月二十五日」
※応仁2(1468)年: 十年にも及ぶ応仁の乱が始まった翌年で、戦闘は次第に洛外に移っていた時期。
陽舜房僧都光宣の逆修墓については、昭和48(1973)年に発行された筒井 英俊氏の著作『東大寺論叢 論考篇』 P.351~352に、以下のように記されている。
「 年号は二つあるが応仁二年は逆修の時の年号で、その翌年即ち応仁三年(*)に入寂したものゝ様で、文明元年十一月廿日は追刻である。
逆修とは生るおりに、四十九日の事をする意味にて逆とは「あらかじめ」と云い事である。灌頂経には、普広菩薩が未だ死せざるに後世の為に、善を修する事如何と仏に問うと、仏は幡を懸け、灯を燃し、僧を講じ、読踊し、経を尊で、後世歿後の追善に擬す、これを行ずる功徳無量である。歿役に修するは七分に一分を得、生る時修するは七分全と説かれている。」
成身院光宣は、筒井舜良房順永の兄である。応仁の乱で東軍の参謀として中心の一画を担っていた。改元の半年後の文明元(1469)年11月20日に亡くなっており、享年八十。
(*)原著では「文明三年」となっているが、文脈から判断すると、正しくは「応仁三年」であり、昭和48(1973)年当時の誤植と思われる。そのため、上記では「応仁三年」とした。ちなみに、応仁3(1469)年4月28日に 「文明」に改元となっている。
2.筒井陽舜房順慶
奈良市来迎寺町にある浄土宗西山派・来迎寺(らいこうじ)境内
「元亀二辛未年 順慶逆修 二月十五日」
※元亀2(1571)年: 松永久秀との戦いが続いている時期。
筒井陽舜房順慶の逆修墓については、『奈良県史 第17巻 金石文 下』など多数の書籍に記されている。元亀2(1571)年は、順慶が数え年 二十三の時の事である。
そして、度重なる転戦の中、 天正12(1584)年8月11日に亡くなっている。享年三十六であった。
0コメント