『日本史』(にほんし、ポルトガル語: Historia de Japam)
戦国時代末期の日本で、キリスト教の布教活動を行ったポルトガル人のイエズス会宣教師であるルイス・フロイス(Luis Frois)による編年体歴史書。 天文18(1549)年~文禄2(1593)年の記録。キリスト教の布教史としてのみならず、織田信長・豊臣秀吉ら諸侯・武将の動向から庶民生活の実情、災害や事件などについても細かく描写されている。
文禄元(1592)年、長崎で筒井伊賀守定次とカトリック司祭・巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)との面会に立ち会った際の記録が、第103章(第3巻第3部第33章)に記載されている。
筒井伊賀守定次関連の一部引用。
〇『キリシタンになった大名』 昭和61(1986)年初版発行、平成11(1999)年2月1日再版発行、結城 了吾(旧名ディエゴ・パチェコ・ロペス・デ・モルラ(Diego Pacheco López de Morla))、聖母文庫、P.363~368参照。尚、この本には、フロイス日本史には記述の無い、筒井順慶の娘であり筒井伊賀守定次の従妹と比定される伊賀マリアに関する記述(P.368~371)もある。
〇『完訳フロイス日本史⑫ キリシタン弾圧と信仰の決意 ―大村純忠・有馬晴信篇Ⅳ』、平成12(2000)年12月20日初版発行、平成22(2010)年12月25日再版発行、著者:ルイス・フロイス、訳者:松田毅一・川崎桃太、中央文庫 P.153~156参照。
〇『キリシタン大名 布教・政策・信仰の実相』 平成29(2017)年、五野井 隆史、宮帯出版社 P.23、および、P.289~296参照。尚、定次の生い立ちを含めて解説されており、またわずかに伊賀マリアにも触れている。
「 もう一人の異教徒の殿は、やはり日本で非常に著名かつ尊敬される人物で、全伊賀国の絶対的領主であるが、関白は数年前に、その父の領有であった大和という、より大きい国と伊賀国とを取り換えたのである。この殿は、現に我らの教会と修道院が破壊されていた時に長崎に赴いた。彼は名護屋において幾度か我らの聖なるカトリックの信仰についての談義を聞いていたので、それについてなお多くの話を聞きたがっていた。また彼は、かつて三箇マンショ殿と呼ばれるキリシタンが、三箇から追放された折に自分のもとに潜伏していて、その人のキリシタンとしての生活に感銘を受けていた。
(中略)
長崎のキリシタンはこの出来事を見て大いに気を強くしかつ慰められた。ジュスト右近殿はのちほど長崎に来て、かの伊賀国の殿がキリシタンになったことを知ると極度の感銘を表し、「彼は物事をよく判り、また深い尊敬に価する人物であることは承知していた。さっそく彼を訪問し交誼を結びたい」と言った。それについてはすでに我らの同僚たちの側からも右近殿に依頼してあったことで、伊賀の殿には右近殿とは大いに親しくなって、信仰生活においてその援助が得られるがよいと勧告していた。右近殿は深い喜びに満たされて次のように言った。「天下の主であり、日本国中でかくも恐れられている関白殿が我らの聖なる教えを迫害し、我らの教会や修道院を破壊しているにもかかわらず、日本の殿たち、しかも異教徒の殿たちの心の中に我らの聖なる教えに対する信用と評価が日々にますます高まっている。それはこのような時にキリシタンになった伊賀の国主(レイ)や、我らの信仰を受け入れる他の多くの殿たちに見られるがごとくで、デウス様の御力を示す、これ以上の証拠はあり得ない」と。」
『キリシタン大名』 平成27(2015)年5月1日、岡田 彰雄、吉川弘文館、P.145~146。
フロイスの『日本史』にある筒井伊賀守定次の記述とは直接関係がないものの、遠因になっているとも推測しうるので、こちらにも触れておきたい。
「 明智光秀の叛乱によって信長が本能寺で最期をとげた時、高山右近は、毛利軍と対峙している秀吉を救援するため光秀の先鋒として備中高松に向かっていた。高槻の城にはわずかの守備兵が残っていただけで、二人の子どもと留守を預かっていた夫人は、城が占領された自分たちは人質にされるのではないかと心配したが、光秀は右近が必ず味方になるものと信じていたため、高槻には手を触れなかった。そして協力を求めたのだが、右近は応じなかった。そして光秀を討つために急遽毛利氏と和を結んで京都に向かって進撃する秀吉に随ったのである。なおこの時三箇島の領主白井サンショ — 三箇殿と呼ばれていた — とその子マンショは光秀から莫大な金子と河内国半分とを約束されてその味方となった。ところが光秀が敗死したため、その城を棄てて逃れ、大和郡山の筒井順慶の許に身を寄せた。三箇島の教会堂もその時兵火にかかって灰と化してしまった。」
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