『戦国大名家辞典』
『戦国大名家辞典』 平成23(2011)年12月20日初版発行、森岡 浩、東京堂出版。戦国時代の大名だけでなく国人領主層も掲載されており2000家を超える家が紹介されている。
「筒井氏」に関しては、P.367~368に約十代の略系図と共に記載されているが、ある点については『寛政重修諸家譜』の内容に触れながら、その他の内容ではそれを採用せず、間違いが多いことで知られる『廃絶録』などの二次史料の情報を参照して記載しているなどあり、内容を十分に吟味しながら読む必要がある。
また、『寛政重修諸家譜』自体に、東大寺、興福寺、西大寺、唐招提寺、春日大社、傳香寺等に残る筒井一族に関する記録や伝承と異なる内容も含まれるため、『断家譜』と共に今後検証が必要。
「筒井氏」(つつい)
大和の戦国大名。同国添下郡筒井郷(奈良県大和郡山市)発祥。『寛政重修諸家譜』では藤原氏支流に収められている他、江戸時代の史料では藤原姓とするものが多いが、実際には大神氏とみられている。菅原姓という説もある。また、『平家物語』や『源平盛衰記』には近江三井寺の僧兵(*1)として筒井浄妙の名がみえるが、大和筒井氏との関係はわからない。
興福寺一乗院門跡の坊人だったが、南北朝時代には軟調方の一乗院に対して、北朝に属して越智氏と対立していた。永享元(1429)年には筒井順覚(*5)が六代将軍となった足利義教に謁しており、この順覚が国人筒井氏の事実上の祖とみられる(*2)。永享6(1434)年越智氏と戦って敗れ、子順弘(*6)が継いだが、嘉吉元(1441)年内訌がおこり、幕府の支援を受けた順永が惣領の座に就いた。順永は応仁の乱で東軍として活躍したものの、文明8(1476)年に死去後、西軍の巻き返しで筒井氏は没落した。
天文15(1546)年順昭が貝吹城の越智氏を降して再興。跡を継いだ順慶は松永久秀と争い、天正2(1574)年織田信長に従って、天正5(1577)年松永久秀の自刃で大和一国を再統一した。信長が本能寺で討たれた際には、去就に迷ったが、秀吉方に三陣して大和一国を安堵された。天正13(1585)年養子定次は伊賀9万5000石(*3)に転じ、関ヶ原合戦でも東軍についたが、慶長13(1608)年改易となった。さらに、大坂冬の陣で豊臣方に内通したとして、子順定とともに自刃。その際に従弟の定慶が大和郡山一万石を与えられたものの、大坂夏の陣で戦死(*4)し、筒井家は断絶した。
なお、定慶の弟の順斎は文禄元(1592)年に徳川家康に仕えて旗本となり、武蔵國足立郡で1000石を知行した。
*1: 「僧兵」 ⇒ 正しくは「堂衆」。
*2: 「順覚が国人筒井氏の事実上の祖」 ⇒ 正しくは、「始祖は、筒井大夫藤原順武公」であり、筒井氏は「官符衆徒棟梁」であった。平成16(2004)年の安田 次郎氏の『筒井氏の「牢籠」と在地支配』(『寺院・検断・徳政ー戦国時代の寺院史料を読む』)や、平成28(2016)年の山川 均氏の『筒井氏と西大寺』(『研究紀要 第二十号』)などで、それ以前の筒井氏に関する研究もある。
*3: 「9万5000石」 ⇒ 正しくは、「20万石」。
*4: 「戦死」 ⇒ 他では見られない記述。「自刃」説が有力とされるが、「自刃と称して地元の福住に隠棲した」との伝承も残る。
*5: 「筒井順覚」 ⇒ 正しくは、「筒井覚順」。『満済准后日記』等で「順覚」とその孫、あるいは、曾孫と推測される「覚順」は別人だと判断できる。
*6: 「子順弘」 ⇒ 正しくは、覚順の「叔父順弘」または「伯父順弘」。
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