筒井定次の伊賀国における領地

 筒井定次の移封後の所領は、寛永年間(1624年 - 1644年)の二次史料である史書『当代記』、江戸幕府の公式史書である『徳川実記』、江戸幕府の公式家譜集である『寛政重修諸家譜』では、20万石とされている。そして、『増補筒井家記』等では、伊賀国十二万石、伊勢五万石、山城三万石で、合わせて二十万石と言われている。しかし、大和国からの移封後の状況については不明な点が多い。


 『当代記』の「伏見城普請割り当て帳」では一万石当たり百人の出人でであることを依拠に、移封当初は、伊賀国の半分程度の所領であったと言う分析事例もあるようだ。しかしながら、石田三成等の例では、必ずしも所領高記録に寄らず、国替後の新しい所領の整備の事情等を考慮され、普請動員数が割り当てられたと思われる記録もあるようであり、今後更なる確認を進める必要もあるようだ。


 慶長8(1603)年、徳川家康が、征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開くと、定次は伊賀一国の国持大名となり、伊賀守に叙任されたようである。


 その後、慶長13(1608)年に、定次は徳川氏によって改易されている。


 慶長20(1615)年には、大坂冬の陣における豊臣家への内通を理由に、嫡男・順定と共に切腹となり、主家はお取り潰しとなった。筒井定次享年五十四、筒井順定享年十五。筒井氏総菩提所の傳香寺に残るお位牌の背面には、慶長二十年三月五日の歿年を刻印し、二代目住職の照珍が、伊賀上野で遺骸を受け取り、奈良で奈毘にふしたと記されている。


 筒井定次の遺領については、その後引き継いだとされる津藩・藤堂家が、慶長13(1608)年8月に、伊予二万石と、伊賀国内十万石、そして、伊勢安濃郡と一志郡内十万石に移封したとされている。藤堂家の記録や情報等も参考に、今後も丹念に追って行きたいと思う。

 また、伊勢国と山城国における定次の領地に関しても、いずれブログで触れたいと思う。



 さて、三重県立図書館のリファレンスサービスを通じて、同図書館の資料調査課地域資料コーナー様より、「筒井定次の伊賀国における領地」について、2011年および1974年発行の郷土史の情報を教えて頂きましたので、ご紹介致します。情報が少ない中でも、年代付きの研究のご成果を拝見すると、何となくイメージが湧いてきますね。

 リファレンス回答、そして、当研究会ブログでの情報掲載に関してご承諾頂きました三重県立図書館、そして、ご担当して下さったN様に御礼申し上げます。


==リファレンス回答骨子==

1.筒井定次の伊賀国における領地については、『伊賀市史 第1巻 通史編 古代中世』(伊賀市/編集 伊賀市 2011)の下記の章に、領地の詳細は不明であるものの、国全体が定次の領地ではなかった旨の記述がある。

 第七章 近世社会の胎動 

  第二節 豊臣秀吉の天下統一と伊賀

    一.筒井定次の支配地とその拠点

     所領と石高(p842-846)

 「 こうして伊賀国には筒井定次が入ったが、伊賀国における筒井家の動向は、定次の代で改易されたこともありほとんど不明である。まず定次の所領がどこにあったのかもわかっていない。筒井家の歴史を叙述した『増補筒井家記』などには、伊賀国一二万石、伊勢五万石、山城三万石であわせて二〇万石とあるが、確証はまったくない。このことを考えるうえで織豊期から江戸初期の政治・社会状況を記した『当代記』の記載は重要である。そこには文禄年間(一五九二~九六)の伏見城普請役の算定基準となる諸国と諸大名の石高が記載されており、伊賀国は一〇万石、定次は五万石となっている。つまり伊賀国の半分が筒井領ということになる。(後略)」


2.上記1の章の後半で、定次領の具体的な場所について諸史料から検証されている。簡単にまとめると、以下の通り。

 (1)天正14(1586)年に、阿拝郡野間村で作成された検地帳の奥書から、定次の家臣が検地奉行であったことがわかる。

 (2)天正17(1589)年に、定次が家臣に阿閉郡湯船庄のうち150石を家臣に与えている。

 (3)寺の過去帳から、阿拝郡の大野木木興三田村は定次の直轄領であったと思われる。

 (4)慶長4(1599)年に、定次の代官が伊賀郡猪田村で年貢算用を行っている。

 (5)慶長6(1601)年に、阿拝郡高畠羽禰西明寺服部河合田中寺田山田郡蓮池喰代真泥の各村の年貢未進分が定次から代官に催促されている。

 (6)山田郡鳳凰寺村の検地帳の記載内容から、もとは秀吉の直轄領であったものがのちに定次に加増されたと推測される。


3.『名張市史』(中 貞夫/著 名張地方史研究会 1974)によると、定次は与力を名張阿保(旧名賀郡青山町、現伊賀市阿保)平田(旧阿山郡大山田村、現伊賀市平田)に配したという記述もある。(p290)

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※ ちなみに、上記のレファレンス回答内の地名は、以下に比定されると思われます。

2-(1)阿拝郡 野間村 ⇒ 伊賀市野間

  (2)阿閉郡 湯船庄 ⇒ 伊賀市湯舟・伊賀市東湯舟・伊賀市西湯舟

  (3)阿拝郡 大野木村 ⇒ 伊賀市大野木

    ・阿拝郡 木興村 ⇒ 伊賀市木興町

    ・阿拝郡 三田村 ⇒ 伊賀市三田

  (4)伊賀郡 猪田村 ⇒ 伊賀市猪田

  (5)阿拝郡 高畠村 ⇒ 伊賀市高畑

    ・阿拝郡 羽禰村 ⇒ 伊賀市羽根

    ・阿拝郡 西明寺村 ⇒ 伊賀市西明寺

    ・阿拝郡 服部村 ⇒ 伊賀市服部町

    ・阿拝郡 河合村 ⇒ 伊賀市川合

    ・阿拝郡 田中村 ⇒ 伊賀市田中

    ・阿拝郡 寺田村 ⇒ 伊賀市寺田

    ・山田郡 蓮池村 ⇒ 伊賀市蓮池

    ・山田郡 喰代村 ⇒ 伊賀市喰代

    ・山田郡 真泥村 ⇒ 伊賀市真泥

  (6)山田郡 鳳凰寺村 ⇒ 伊賀市鳳凰寺

3.  名張郡 ⇒ 名張市の大部分

   ・名張郡 阿保村 ⇒ 伊賀市阿保

   ・山田郡 平田村 ⇒ 伊賀市平田

筒井氏同族研究会

大和の戦国大名・筒井順慶をはじめとする筒井氏を調査研究する団体です。 一族郎党の子孫や研究者だけでなく、筒井氏に興味のある方ならどなたでも歓迎します。 筒井氏の謎を一緒に解明していきましょう。

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