筒井 順定 (つつい としさだ)
筒井宮内少輔藤太郎順定
・慶長六年(1601年)年辛丑正月五日、伊賀の国に「藤太郎順定」生まれる。 母は「「上野ノ御方藤女平秀子」
・慶長廿年(1615年)乙卯三月五日切腹。歳十五。戒名は「一運宗剣禅定門」である。(『傳香寺過去帳』)
・傳香寺の位牌背面には慶長二十年三月五日の歿年を刻印し、二代住職照珍が伊賀上野で遺骸を受け取り、奈良で奈毘にふしたと記す。
==<参考>===
・『平城坊目考』巻之弐(寛政年間):
「宮内少輔順定、定次長子、父子同時生害。法名宗運大居士。年十五歳。傳香寺二代照珍和尚乞請両士死骸而火葬於大安寺建石碑於当寺。」
・『寛政重修諸家譜』巻第千九十七:
筒井定次の第三子。「亀千代。宮内少輔。母は信長の女。慶長十三年六月八日、父と共に罪をかうぶり、元和元年三月五日死をたまふ。」
(慶長廿年は、7月13日より、元和元年に改元された)
・『断家譜』巻之拾三の津(つ)之部:
筒井定次嫡男。「藤太郎、宮内少輔、母織田信長女。断絶。慶長六年辛丑正月五日生賀州、同二十年乙卯三月五日切腹、年十五、法名一運宗剣。」
・『和州諸将軍伝』巻十三 遊客閑雲子増撰:
「同年の極月中旬騒動しばらく静かなりと云へども大坂篭城の筒井家の牢士等より侍従父子配流の身ながら内通の聞こへある様に沙汰しければ、元和元年乙卯二月五日に侍従父子伊賀国に於て遂に生害に及べり、侍従定次五十四歳、宮内少輔順定十五歳なり、南都の停香寺は筒井家の菩提所なれば住持照珍和尚は侍従と後従弟なれば、伊州へ馳せ来り父子の死骸を乞ひ請け南都に帰り大安寺に火葬し則ち神主、石碑を傳香寺に建てたり、神主の表に「前伊州太守四品拾遺宗用大居士 慶長二十年三月五日」、「宗運大居士 慶長二十年三月五日」」。
・『武徳編年集成』慶長十三年条:
「六月廿日、筒井定次ノ領知伊賀一国作勢州ノ内五万石、城州ノ内二万石没収セラレ、其子宮内卜共二藤堂和泉守高虎二預ケラル、共臣桃谷与次郎国仲フモ高虎力許二諭セラレ、国仲力子与太左衛門国之・河村与六郎正之o松浦左内祐次、家法ヲ乱ル罪二依テ死ヲ賜フ、定次ハ信長ノ聟タリ、今年四十七才、共子宮内八才卜云、家財ハ定次力心二任セ、何方ヘモ遣スヘキ旨御下知ア、共一族従士悉ク牢浪ノ身トナル、中坊飛騨守秀祐ハ直臣二列セラル」
(『武徳編年集成』は、元文五年(1740年)に成立した徳川家康の伝記。)
・『傳香寺筒井家系譜』:
「宗運大居士、慶長二十年三月五日、一運宗剣禅定門ト云傳香寺位牌有」
(江戸時代末期に、椿の愛好家としても有名な唐招提寺七十五世長老と傳香寺住職を兼ねた宝静(ほうじょう)長老が、天保四年 (1833年)に傳香寺にて順慶法印250回忌法要を修行する前に、諸記録を纏めた筒井家系譜を編集し、多くの筒井家関係宝物 を保存修理された。)
・『増補筒井家記』:・・・
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